真夜中という時間はしばしばリリックの中では
恋人の逢瀬をとげる、なんてロマンティックに描かれがちですが現実はそんな甘いもんじゃない。
放置していた課題を取り組みながら
チョコレートをほお張るのだ。
味覚的には甘いし自分には甘いが、甘い雰囲気なんていさ知らず、現実から逃げた一瞬の快楽と増えゆく体重から湧く後悔の狭間で揺れ動くのだ、
後悔を航海する。
Voyage regret:(
紅海を公開する
Open the Red Sea!!!!
「こうかい」という言葉だけでこんなにバリエーションがあるなんて。
こう書いて、こう、かい?
海溝で邂逅を遂げるのか?
開口一番解雇される。
号外豪快に公開する。
言葉遊びに高じる深夜2時。
外から日本語を捉えられるという点で
言葉遊びは面白い。
「ツ」が海外では絵文字と使われているように、
意味を頭の中で変換せず、外面的要素だけをなぞると新たな発見があるのだ。
久しぶりに多和田葉子氏のエッセイを読むと、日本語の新たな可能性に気付かされる。
すると、今まで見えていた面から全く違う面から見えるのだ。
まるでルビンの壺のように。
地と図は固定のものではなく、
視点によっては全く逆転してしまうのだ。
このように考えると、今まで囚われてきたステレオタイプから自らを解放することは可能だとわかる。
「〜ねばならない」という主義主張にとらわれ、強迫観念的に何かを希求し、日々を過ごしてしまうことが往々にして有り得るが、ふと立ち止まってみると求めていたものは蜃気楼だった、と分かるのだ。
蜃気楼に翻弄され掴めたものは空気だけ。
人生なんてそんなものでしょう、と割り切れたら話は別だが、自らを納得させるためには、価値観の切り離しというものが必要となってくるのだ。
これがいわゆる「括弧に入れる」行為なのだろうか。判断を留保する、という現象学の知見ではあるが、現象学は非常に難解であるため、ここでの記述は留保させて頂く。
また異なるコンテクスト下ではあるがものごとを「括弧に入れる」ことはメンタルヘルスの面から
いいのではないか、と思う。
普段、我々は一つ一つ物事をはっきりさせて、一つ一つタスクを「消化」していくのだが、果たしてそれは消化といえるのだろうか。
はっきりさせ、消化し、その繰り返しの世の中。
神経症のように、何かを白黒つけなくてはと思い込むことにより、自分のなにか大切な部分が失われているのではないか。
ここで、一旦の留保が必要である。
正論は確かに、勝つのだ。
しかし、それは本当に多角的に見ても「正しい」のか?という疑問はいつになっても消えない。
確かに、そうなのだ。しかし、本当にその「正しい」選択を行うことで「快」を感じることは出来るのか?
最終的に良い、と納得できるのか、と考えると「正しい」ことと自分が「納得できる」ことは必ずしも一致するとは限らないのだ。
正論と持論の狭間で分裂し、自分を追い込んでしまう前に一旦判断を留保しようとする姿勢は大切にしていきたい、と思う。
ーー
最後に。
私は全く哲学的な知見は無いけれど、
たまに立ち止まってふだんとは違った視線を投げかけてものごとを見ようと思う。
ここが哲学の始点になるかもしれないから。
なぜ?これでいいの?という疑問を大切に抱きしめたいよ、と心に決めたところで今回の記事を結ぶ。