Naegi

逍遥

武勇伝とトラウマと

学歴重視よりも経験重視という発言が、波紋を引き起こしている。

 

点数だけの入試より、経験重視なのではないか。

まぁ、この議論については仔細に言及しないが、経験重視という言葉に引っ掛かりを覚えることは事実である。

 

(発言した本人を非難する意図はない。おそらく、育った環境が要因であり、見えている世界はきっと違うのだろうから。そして、与えられた環境の中でベストを尽くしてきたのだろうから、個人を非難するつもりはない。彼女のような人を、スケープゴートとすることには賛同しかねる。もちろん、現在の状況において経験重視の評価をしたところで、格差はますます拡がるばかりであることは自明だとお思われるが。) 

 

議論の中で、いじめを経歴としてアピールすれば良いだろう、たとえ留学という大きな経歴がなくても。というような趣旨。

 

あ、これ既視感あるな、と私は思った。

 

1回目の就活で、エージェントと面談した際に、

「人生でいちばんの挫折」を話した時のこと。

組織内でのトラブルよりも断然、いじめによる自己の全否定が挫折であった。自分のあらゆる要素が否定されたような気がした。

 

素直に、わたしは「いじめ」だと答えた。

親切な就活エージェントは、逆境を乗り越えた「物語」を作ってくれた。いじめの経験を「強み」として語る。

 

zoomの退出ボタンを押したとたん、感情がどっと押し寄せた。何も考えられなかった。

 

今ならわかるが、それは挫折というよりも「トラウマ」なのであって、よく知らない赤の他人に開示する必要はないのである。

 

自己分析とか自分史とか、あくまでも所属組織を見つけるためのものであって、個人としての自分を確定させる場ではない。つまり公にしたくない事物を開示するのは不適当だ、ということである。

 

いまなら、所属組織内における挫折をすらすら語っているのであって、ノーダメージ。1回目の就活よりも、だいぶストレスが少ない。

 

そう、トラウマは語る必要はないのだ。

逆境に立ち向かった経験、なんて適当に拵らえられるから。センター試験本番1ヶ月前にE判定出したけど合格した話、組織内でいろいろ失敗しまった話。どれも私の内面に踏み入る話ではない。

 

話は逸れたが、公にできる経歴なんて、限られている。というか、自己開示を強制させる選別システムをスタンダードにするのは、間違っていると思う。

 

内面を含めた経歴なんてもんは、気心しれた友人に話すくらいでちょうどいい。組織にマッチするかどうかとかの話に、内面の話を持ち込みたくない。トラウマをある種のアチーブメントとして語るのはどうなの?

 

 

その点でいえば、論文を書く作業は「自己」を開示しなくていいので楽である。"I"を登場させるな!、主観的な形容詞には注意を払え!と口酸っぱく言われて、ようやく自己と距離をとって文書作成が可能となった。

 

AO入試の書類を添削していて思うのは、原体験を求めすぎ…ということである。大学でのライティングは基本的に自己を出さない。なのに、なぜAOとかの類では「私」を全面に押し出さねばならないのか。

知的生産において、別にきっかけとか重んじられないし、論の必然性を出すには自己と離れなければならない。

 

現行の制度では、自己とうまく離れられるのが点数で判定する入試なのだと思う。AOやら推薦やらでも、もっと自己と切り離してほしいと思う。アカデミックライティングの初歩であるはずの小論文にも自己を求めすぎである。

 

議論においても同様で、うまく自己と切り離して論じる方法を教えてもいいのになぁ…と。

 

大学入試ー大学での知的生産におけるギャップを改善するには、どうすればいいのだろうか。

少なくとも、度を越した自己開示ではないことは確かである。