Naegi

逍遥

無形のじぶん

ここ数週間、本腰を入れられなかった研究を進めた。久しぶりにガッツリ精読をする。文学の読みは一人で収束できるものじゃないから面白い。とりあえず、数週間後に提出する論文では、わたしなりの読みをガツンとぶつけてフィードバックをもらおうと思う。

 

少し研究に関わるところたが、近代日本の女性文学についての資料を読み込んだ女性文学っていう枠組みが存在する時点で男女の不均衡が存在するよ、と思うがいわゆる文学のカノンが男性中心主義だから仕方がない。その反省を踏まえたの女性文学なのである。

 

ただ、当時の書評を読むと、なにかと作品と女性性が結び付けられていて、しんどかった。女だけどすごい才能。うるせぇぇと現代の人間の私はそう思うが、当時は女という属性自体のビハインドはかなり大きかったんだろうな。いまも変わらないところもあるけれど。

 

久しぶりに教科書で出会った詩と再開した。

新川和江の「わたしを束ねないで」という詩。

キャッチーなタイトルは覚えていたが、肝要な内容は忘れていた。読み返せば、女性に負わされる肩書きを述べたものであると気づく。こんな詩だっけ…

確か中学生の時に読んだ詩なので、当時は意識することがなかったのかもしれない。妻として、母としての規範を押し付けられることを。束ねることが示すのは単なる束縛ではなく、良かれと思って言われるあれやこれやの役割なのである。

 

最後に示されるのが、川。

新川が志向したのは、滔々とながれゆく川なのである。型にはめられることのできない水のようになりたい。そんな思いは、特定の役割を押し付けられた人ぜんいんに共有されていることではないかと思う。

 

いや、これは役割という言葉のみに留まるものではない。ふだん、無意識のうちに自分に対して呪いをかけているように思う。わたしは無能だから…わたしは賢くないから…わたしは外面が良くないから…なんて、求められていないのに自分をなんらかのかたちに規定しようとする。

 

束ねないことは、自分に対してジャッジメントくださないことでもあるのだと悟る。開かれた可能性につながるためには、自分の呪いを解いてあげることが必要なんだろうな。

 

自分につけた形容詞を取り払って、内面化された規範に気づくこと。そうやって、自在に生きることができれば、この上ないことだと思う。