Naegi

逍遥

読書録をつける

久しぶりにこのアプリを起動した。

最近は専らnoteで院生生活の記録をつけているのだが、いいね!のシステムに緊張してしまうので上手いところ自分の感情を落とし込めない。

 

Twitterと一緒で、noteは拡散性と検索性が高いのがネック。

 

多数の人に見られてしまう可能性があれば、カッコつけたくなるし、いい子になりたくなる。しばらくは疲れたので、こっちでの投稿を再開したい。

(諸事情により少しの間閉鎖していたのだが、古巣の安心感には抗えない)

 

特筆すべきことはないが、一応院生になったということで研究にプライオリティを置いていることの証左となるような記録が残せたら…と思う。

 

実は、最近研究を疎かにしているところは否めない。就活…授業…案外修士一年は忙しい。

入学したと思えば就活。無情だ。

修士課程は3年くらいあっていいと思う。 

(将来すこし働いたら、大学院に戻りたいと思う、でもそれと話は別。)

学部2年の時の無敵感を取り戻したいんだ…。

 

話を戻すと、一応身分は文学系の大学院生なので出来るだけ学びたいし、なにか書いておきたい。頑張って業績も残したいものだが、それとは別に「日々知識のストック増やしてます!」といった記録は残しておきたい。要するに、研究とは直接関係しないものをアウトプットする場もあったほうがいいんだろうな。実名を出していないので、あまり研究に近いものは載せたくないし、ネット上に匿名で研究内容を載せると色んな方面でリスクがあるし…

 

というわけで、読書録でもつけようかと思う。

ブクログでログはつけているけど、あのようなプラットフォームで長文の感想を書くのは気がひける。

たとえばの話、食べログで長文書きたくないじゃん?そんな感じ。

 

最近読んだのは、多和田葉子の「地球に散りばめられて」という小説。最近文庫化されたので、入手。3年くらい前から読みたかった。

 

母語が消滅したとき、こちらの認識はどう変わるのかという話で、言語が世界を規定しているとは言い得て妙だなぁと思うことになる。筆者独自の言葉遊びも秀逸で(多和田作品に共通していえることだが)思わずクスッとしてしまうものも多い。言語的センスに長けているひとって、うまいこと掛け言葉を使うというか、駄洒落をとにかくいうんだよなぁ。オヤジギャグはああ見えて、高度な遊びなのです…。

 

主人公の名前はhiruko。ヒロコじゃなくて、hirukoなのである。日本神話に出てくるヒルコは蛭子とも表記されるが、国産みに失敗したときのヒルコとも言われるが、これは母語消失と重なるのではないかと思う。まだ日本がドロドロで固まっていなかった時代のことであるから、hirukoとは地盤がないことを象徴する名前なのではないかと思う。神話でヒルコは舟で流されていることからも、それは明らかである。根付いていないのである。

 

母語が消失するとどうなるか。

その言語固有の言葉が消え去り、翻訳の時に冗長な説明となってしまう。翻訳ではどうにもできないニュアンスを、ぴたりと表現できなくなるのである。

この小説では、そんなナンセンスな会話が幾度となくなされるのである。ついついおかしくて笑ってしまいそうになるが、本人たちは大真面目なのだ。

 

カズオイシグロの「満たされざるもの」を彷彿させるような、ナンセンスな会話が延々と続いていくので、どうしても理解が追いつかない箇所も多かった。が、多言語でものを考える時に、使用する言語からの支配を免れえるのか、その可能性をも示唆する作品であると思う。

 

巷で話題の「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」(ハヤカワ文庫)ガイ・ドイッチャーは絶賛積読中なので、これもあわせて読んでいきたいと思う。言語と認識の問題はあまりにもマクロな話なので、もう少し問題設定を狭くして読むべきだろうが…。

 

最近、また英語の勉強を再開した。

3年くらいダラダラと続けているせいで、日常会話レベルはなんとかこなせるようになったが、アカデミックライティング、ディスカッションとなると本当にダメ。どうしたら洗練された表現になるのか、まだ体系的な理解が足りない…というわけで、方法をいろいろ思案した。

 

結論から言えば、読む量を増やすことに越したことはないのである。ということで、英語で書かれた記事をネットで探し、図書館で知ってる作品の英訳を探す。その繰り返しをこなすのが一番早い。語彙力は机上よりも、実践のなかでつけられるものだから、と言い聞かせながら取り組む。

 

少し前に読んだ「物語を忘れた外国語」黒田龍之介(新潮文庫)では、外国語を学ぶ良い方法は、その言語で書かれた小説を読むことだと紹介されている。

 

わかってはいるけど、一番の強敵は小説なのである。ひととおり文法を抑えていても、辞書には出てこない独自の表現が出てきたりして、言語玄人でも読むのに苦戦するのが小説である。構造も明快ではないものが多い点でアカデミックライティングとは異なるし…。

 

今まで逃げてきたけど、やはり多読なのである。

というわけで英語の方もぼちぼち読んで感想つけます…。

 

全然話は変わるけど、やはり人文学(文学は特に)を外国語で学ぶのはハードルが高いと思う。

 

わたしは日本語の文章を対象にしているが、これを英語で研究論文を書くとなればどう翻訳していいのかわからない。こまかなニュアンスに気をつけなければならないので、なかなか難しい。

 

ただ、英語が不得手なせいで人文学における日本のプレゼンスはどんどん小さくなっているという耳が痛い話はよく聞くし、何より日本語で書かれなくなったものも増えてきたのである。

いろいろ思い悩むが、外国語の学習から逃げることはできないなぁと最近になって改めて痛感した。