Naegi

逍遥

青空の下で考えたこと

この週末は晴天に恵まれましたね。

澄んだ空の下で少し散歩したのですが、とても気持ちの良いものでした。

 

私は天候に左右されずに生きている人なので、雨が降ったからといって通学方法を自転車から徒歩に変えないし、晴れていないからと言って洗濯機を回すのを躊躇うことも無いのですが、やはり晴れていると気持ちの面では変わりますね。

散歩していて楽しいのは晴れの日ですね。

 

今日は晴れでしたが、別にハレの日でもなく、ケ、です。

何てことのない日常の一部でした。

悩んだり、落ち込んだりもするけれど、それは日常の一部。

そういった積み重ねが人生を形作るのだなあと改めて実感しました。

長い目でみれば、落ち込んだことも、みそっかすに思えてくるのでしょう。

そんな自分を時間的に俯瞰できる力がほしいと思う時もありますね。

 

たぶん落ち込んだ経験こそが若い時の経験を深く印象づけるのでしょうね。

だからこそ青春とはほろ苦いイメージが付与されているのでしょう。

 

さて話をもとに戻します。わたしは散歩をしたのです。

散歩と思索に耽ることは切っても切り離せない関係にあります。

逍遙学派を習いましたね。懐かしい。

アリストテレスは歩きながら講義を行った、というやつ。

机上で考え事をするより、歩きながら考えた方がいろいろと深く考えられますね。

というわけで、散歩をしながら考えごとをしたのでその記録を今日は残しておきます。

 

年をとるのはよいことなのか、悪いことなのかをずっと考えていました。

アンチエイジングなんて言葉が流布しているけれど、どうして加齢を悪いことだというのでしょうか。

素直に、加齢によって見た目がよぼよぼになったり、体が故障したり、と身体的な悪影響があるからこそアンチエイジングはビジネスとして成り立っているのだと受け止めれば良いのですが、どうしても引っかかるものがあります。

 

加齢による悪影響ばかり目についてしまうのが現在の社会なのかなあと思ってしまうんですね。

 

私は年をとりたいと少しばかり考えてしまっています。

というのも若さに辟易してしまいました。(この表現には語弊があるぞ~)

若いと真剣に取り合ってくれない場面もあるのですよ。世の中には。

(愚痴や不満ではないです、少なくともそうした場面には最近出くわしてない)

(事実、大人よりも経験が少ないのは否めない)

 

アンチエイジング社会では若さはポジティブに捉えられることが多いと思いますが、未熟さ、そして無力さにも着目するべきですね。(いやー、若いって無力だなあと感じることも多いので年をとりたい!って思ってしまう。若さは活力なんですけどね。)

「最近の若者は~」といって批判される存在である若者。

そんな若者たちの心理を掬い取って小説を書きたい。

若い今だからこそかける若者の心の機微を文章にしたい。

私の中で屈折した思いは昇華されていきます。

 

結論:熟していないバナナはまずいし、青臭い。果実も人生も同じ。

 

 

今は大人と子どもの中間地点にいます。

倫理で習ったマージナルマンですね。

 

法律によって18歳から大人になる日も遠くないと思いますが、実際のところ大人と子供境目ってはっきりしていなくて、グラデーションのように徐々に大人になっていくものだとおもうのですよ。昼と夜の境目がはっきりしていないように。

 

だからこそ、揺らぐのでしょうね。

子どもでもない、大人でもない、我々は何者だ!?って。(何者、今度読んでみようと思います。NANIMONOって曲好きです、あの映画の主題歌の)

 

本来は、大人と子どもってはっきりと分かれていないのに、制度として分けざるを得ないんでしょうね。

 

というわけで通過儀礼が必要かも。イニシエーション。

そういうわけで、わたしはイニシエーションとして小説か紀行文を完成させたいです。

(なにか、二十歳記念のものを成し遂げたい。)(紀行文書くとしたらどこに行こう)

 

 

 

あ、たまに何もかも保護下に置かれていた幼少期に戻りたいって思うことがあります。これこそノスタルジー、過去は往々にして美化されるのです。

現実逃避的に過去の思い出に浸ることもありますねえ。

 

とはいえ、自分が考えたり行動したりできるのは今なので、今しかない今を大切にして毎日を過ごしていきたいですね。

最初に述べたように、人生は何気ない毎日の積み重ね、数え切れないほどの今が含まれているのですから。

 

今回はここまで。