Naegi

逍遥

落ち葉の行き場

 散った金木犀の香りは旬の過ぎた蜜柑に似ている。金木犀の断末魔のような、甘い香りに出くわす。甘いんだけど、なんかくどいというか、独自のえぐみを持っている。これは、冬の終わりの蜜柑のようだと思う。回想に残存する香り。旬の過ぎた匂い。こうしたものを捨てずに抱きかかえたい。

 金木犀の香水を持っている。購入した当時は毎日つけるほど気に入っていたのだが、うんざりしてきた。金木犀の香りにも辟易するくらい。微量がちょうどいいものって、ある。菓子パンの類もそうなのだ。小学生の時に大好きだったメープルメロンパンを思い出す。我が家のルールに、土曜日の朝だけ菓子パンを食べてよい、というルールがあった。スーパーで菓子パンを選び、土曜日に食べる。こうしたルーティーンも、面倒くささに負けて、毎週メープルメロンパンを食べる習慣へと変容していった。大好きだったから、選択の余地なくメープルメロンパンを食べていた。

 今や、メープルは好き好んで食べない味である。もちろん、もらったお菓子は喜んで食べるのだが、自らメープルフレーバーのものは買わない。カナダ土産のメープルクッキーはとてもおいしかったけれど、メープルメロンパンにうんざりした記憶を呼び起こさざるを得なかった。おいしいけれど、毎日食べると辟易するもの。

 私は恋愛を、こうしたジャンルにカテゴライズしている。大学に行けば、身を寄せ合って歩く恋人たちをよく見かける。大学入学当初は少し羨望の眼で見ていたし、恋人がいたときは楽しかったけれど、今や菓子パンのように胸やけを催す。恋愛至上主義に毒されたとか、そういう話をしたいわけではなく、人間との距離の話なのだ。一人の人間と向き合うと、胸やけしそうで。メープルメロンパンのようにならないのか。すこし懐疑的である。たぶん、切り干し大根のように、飽きの来ないものを選べばよいのだけど。

 食べ物と恋愛のアナロジーはまぁ、そのセンシュアルなイメージが付きまとうが、その意図はない。ぱっと思いついたのが、JAWNYのHoneypieだ。あの曲のグルーヴが大好きで、よく聴いているのだけど、その典型例だ。

 さて、話を戻そう。結局、金木犀の香りじゃなくてサボンの香りに落ち着いた。幻想に生きることは難しい。来春から社会人として働く身なので、いい加減何かの幻想に縋りつくことにも飽きてきたのだ。学生生活があまりにも幻想で彩られていたから。新たな人との出会い、学びへの期待とか、そうしたものが一気に現実へと変容していく。金木犀の浮世離れしたイメージも、とうとういやになってきた。フジファブリックの楽曲に心酔していた時代は終わった。冷めてしまったのか。冷めたものを温めなおすような気力はない。冷めたまま、放っておいてもよいかもしれない・

 

久々に初対面の人に囲まれる機会を得た。あ、いつものキャラを演じているぞ、と自分に気づく。○○さんって人を褒めてばかりですよね、と言われる。人の美点・欠点に人一倍気が付くので、良いことは口に出していく。というか、自分が確立されていないゆえ、人と比較し、時として劣等感を感じるから、気づくのかもしれない。まぁ、美点・欠点とは書くけれど、そこに価値判断を過剰に入れ込む必要はない。ただ、そういう人なのだ、という事実を伝えているだけ。

 

究極な人見知りなのかもしれない、とも思う。私は発話量が多い。とにかく一気に言葉を発するタイプのコミュニケーションを取る。私の強みはコミュニケーション力です!とリクルートスーツ着て言い張れるほどだ。でも、相手の気持ちを引き出したいのは、自分の話をしたくないからなのだ、とも思う。口頭での自己開示はとても恥ずかしい。できるだけ文字ベースでやりたい。私は自己を語るとき、できる限り文字媒体で書きたいのだ。話すのがうまくないからか?口頭でのコミュニケーションでは、あまり自己を開示していないことに気づく。

 

占いに行ったとき(この話をよくするが、ある占い師に行ったときの話を繰り返しているだけ。一回きりの話)、あなたは自己開示をしないよね、本当の自分って全然人に見せてないよね、好き嫌いあるよね、と言われたことがある。首肯する。一見すると、そうではない。外向的な人だとよく言われる。実はね、自己開示に対する拒否感が高くなると、人の話を聞きたがるんだよ。

 

知は力になりうるのか?なんて大仰なタイトルでブログを書こうとした。大学で文学や歴史について研究していて、メタ的に物事を捉えるようになる。フレームを捉える。ステージに立つ人間ではなく、劇場を劇場と認知して眺める観客というべきか。内容よりもフレームばかりに目が行ってしまう。悪い癖だと思う。

 

斜に構える。書かれた文字を文字通り受け取らない。しっかり根拠を持ちながらも、文章の裏に込められた意図・作者の無意識なバイアスを探る。そうした作業を繰り返すと、書くことに対して意欲を失ってくる。表現することの非対称性を改めて感じる。シェイクスピアが言ったように、生きるということはある種の演技というものを伴う。生きている限り、役者をしなければならない。俯瞰することなんて、できない。俯瞰したと錯覚するならば、それはただの思い込みで、メタ的に捉えてやったとしたり顔しても、そこには無意識のバイアスがひそんでいる。絶対に正しいなんてことはない。表現者への敬意はずっと持っていたい。このままでは、ただ他者を断罪するだけの人間になってしまうのではないか、という気持ちが少なからずある。

 

知を力、権力としてふるまうことは私は嫌だ。わかったふりをしすぎている。役者なのに、粋がった批評家然として生きているのではないか。そうした疑問は消えない。大学という場所はとても素晴らしく、数多くの人から薫陶を受けた。私は大学が好き。いつか帰りたい。でも、大学の人にはなりたくないとうっすら思っている。在野でものを書く人になりたい。ロールモデル寺尾紗穂さん。大学の外に根を張って、調査したいと強く願っている。

こぼしの小法師

今週のお題「こぼしたもの」

 

Spilt milk と題した短編を書いたことがある。こぼれた牛乳のように、収集がつかなかった試みなのだが、私の心にはいつもspilt milkがある。言うまでもないが、There is no use crying over spilt milk(覆水盆に返らず)の諺から採用している。覆水というタイトルでも良かったのだが、個人的にmilkの方が「やっちまった」感が醸し出せる気がした。水ならタオルに含ませてどうにかなるが、牛乳の含んだ繊維は一気に臭くなる。拭いたあとが肝要だ。

 

やらかした経験には枚挙にいとまがない。わたしは普通のひとと比べて、うっかりすることが多く、ミスも多い。関心がなければ、記憶から一気に抜け落ちる。なんとかリマインダーの機能で、うっかり経験が減ったものの、リマインダーすらいつもの景色に変容してしまい、うまくいかないことがままある。運動はとても苦手。飛んでくるボールを避けるから。飛球に関心がないし、受け止められる能力もない。運転も下手くそだ。なぜなら運転に興味がないからだ。

 

目の前のことに向き合えない性分なので、ものをよくこぼす。ご飯を食べていても、ご飯をすぐこぼしてしまうし、スープもこぼれ落ちる。飲み物もよくこぼす。蓋つきの飲み物であっても、なぜかこぼす。

 

起き上がり小法師って「小さな法師」と書くんだね。物をこぼしすぎて、こぼしの〇〇と言われそうな具合だが、小法師なんて贅沢な名前だなぇ、と言われる次第である。

 

つまらない冗談は措くにしても、わたしはとにかくものをこぼす。電車でもお茶をこぼした。目の前の乗客には被害が及ばなかったものの、普通に恥ずかしかった。先日「お茶は停止したら飲もうね」と諭されている三歳くらいの子どもを見た。わたしは、もう大人と言われる年なのに、お茶をこぼしている。

 

わたしがしょっちゅう物をこぼすものだから、よく親に怒られていた。いまでも飲み物をこぼして怒られる子どもを見ると、胸が痛い。確かに、必死に子育てをしていたら、ちょっとのことでコップがいっぱいになって、こぼれてしまうだろう。フラストレーションがオーバーフローしてしまうのだ。わかる。どっちも、こぼしているのだ。大人になったから、余裕を持って諭さない大人の気持ちもわかるようになった。でも、そんなに聞き分けのいい子どもはいない。せめて、これからこぼさないための秘訣を教えた方がいい。でも、それも無意味だと、私は知っている。こぼす時はこぼすのだ。

 

好きのテリトリー

人に優しくしたいという欲求は、時としてエゴイスティックな感情に由来する。少なくとも私は。

久しぶりに、他の人に対してややキツめのことを言ってしまい、自己嫌悪に陥る。同時に、ここでなあなあにしてはいけない、という気持ちもあり、消化しきれない思いがぐるぐる回る。

 

これ、たぶん組織においては絶対に必要なことなんだよな、必要な場面でしっかり注意をすることって。罪を憎んで人を憎まずマインドでやっていきたいのたが、人に対してはっきり物申すことが悪意と受け取られかねないので、なかなか難しい。そして、怒っていると勘違いされるが、私は怒りの感情をありったけにぶつけることはできるだけしないようにしている。

 

嫌われる勇気と題した自己啓発本が世を席巻したことは記憶に新しい。私はその本をしっかり読み込んだわけではないので、内容自体に何かを言うわけではないが、このタイトルがセンセーションを引き起こす意味を考えたい。はっきりと自己主張できない人って少なくないのかもしれない。その根底には、嫌われたくないという気持ちがあると思う。私もそう。嫌われたくない。

 

嫌われてもいいからといって傍若無人に振る舞うのはまた違う話だが、少なくともおべっかを言わない練習は必要なのだ。お世辞やおべっかって、うっすい関係性の中では必要かもしれないが、親しい人との関係性には、まったく必要がない。その人のためにならないから。ほんとうに関係性を構築したいなら、本音で語り合おう。そのための心理的安全性はしっかり確保しておきたい。やはり、罪を憎んで人を憎まずマインドで!

 

スマホの機種変を契機に、思い切ってインスタとTwitterのアプリを消した。おかげさまで、自分の置かれている状況への不平不満が減り、満たされている実感が増した気がする。隣の芝生を見ずに済むことが、いかに尊いことが改めて実感した。

 

Twitterにいると、どうしても断罪的なコミュニケーションに陥ってしまう。うっすらと嫌悪感を覚えたアカウントはミュートして、快適なタイムラインを作っていたら、タコツボに入っていたようで、ようやくそこから抜け出せたように思う。Twitterは良いプラットフォームで、自分の気持ちをインスタントに記録できる点で便利だったのだけど、常にタイムラインを追うのはしんどいよね。怒りと悲しみに満ちた世界ではあるから。

 

使い方次第なのだ。道の途上で開くのはあまりにも勿体ない。目の前の景色を見つめていたい。

 

頑張るという行為について考える。

いま、修士論文に追われて、時間があれば文献を読み、資料を印刷して蛍光ペンで線を引いたり、付箋を貼ったりするので忙しいのだが、それなりに楽しい。デッドラインがあることは、心理的な負荷ではあるけれど、なぜか最近は楽しい。

 

他者から見れば、頑張っているように見えるんだろうな〜と思うけれど、私は頑張っている意識はない。というと嫌味っぽくなるけれど、楽しいと感じることには頑張りを感じない。

 

大学時代に頑張ったことは何ですか?と就職活動で散々聞かれた。それなりに頑張ったことはあったので答えたが、頑張ったという意識がある時点で、そんなに好きじゃなかったのかなとも思う。研究を頑張った、とはあまり言わなかった。求められていなかったと言うのもあるけれど。振り返ってみれば、あの時は周りの人に恵まれていたから、学生団体の活動がとても楽しかったけれど、活動内容自体にのめり込むほどの情熱があったのかと言われれば疑念がのこる。

 

たぶん、ほんとうに好きなことはああいった場で披露することなく仕舞っておきたいものなのかもしれない。就職活動において、興味にあることをもとに職種や業界を絞ることは大切かもしれないが、ほんとうに好きなことは避けた方がいいと思う。好きという気持ちが揺らぐ可能性があるから。

 

同じことは研究でもいえる。好きなものを研究対象にするとえらいことになる。だから、わたしは音楽を研究対象にしなかった。好きな作家を研究対象にしていない。

 

好きなものって、かなりプライベートな領域なのかもしれない。わたしは研究が好きだが、これを仕事にしたいとは思わない。

 

 

スマホを変えたので、キーボードの感覚をうまく掴めていないし、検索タブもパーソナライズされていないので、文章が書けなくなってきた。

文章を書くツールはけっこう、文章の質に影響を与えるのだな…パソコンで打つ時は基本、長文。これからもパソコンで書こうかな。

森は生きている 北海道旅行記 完結編

北海道旅行記録を放置しているのは、ひとえに修論に追われてるからだ。夏は心の調子があまり良くなくて、思考もままならない状態だった。気温が下がった途端、文字が頭に入るようになり、筆が進む。金木犀の季節はいつも心が穏やかだ。秋と冬が大好き。

 

発表会で割と高めのハードルを突きつけられて、慌てて調査をしているので、旅行の記憶が忘却の淵に…

 

それでは、北海道旅行4日目の記録です。

朝5時に起きて、美幌峠に。雲海を見た。

f:id:moekie:20231016230111j:image

朝という時間を久々に体感した。フルフレックス大学院生なので、一日は昼から始まっていると錯覚している。

 

f:id:moekie:20231016230330j:image

摩周湖ポケモンを思い出すよね〜と話していた。場所的に、アグノムが出てきそう。小学生だった時はユクシーが一番好きだったな。

 

f:id:moekie:20231016230441j:image

草津温泉の湯畑を思い出す。

 

弟子屈の街に戻り、釧路を目指す。どうやら80キロくらいあったようだ。私は牧草地や湿地をずっと見ていた。梨木香歩のエッセイで見た景色を思い出す。具体的には言えないのに、なんとなくイギリスの風景が思い浮かぶ。

 

友人の1人が釧路空港から帰途についた。直行便がないので、私は札幌に一泊してから帰ることに。運転する車に揺られて釧路から札幌に向かうのだが、高速道路が通行止めになった。これが何を意味するのか、私はわからなかった。

 

ひたすら湿地を走る。海岸線が続く。眠くて仕方がないが、運転手のことを考えれば眠れない。それに、北海道の風景を焼き付けていかねば、という使命もあった。よくわからない使命。

 

帯広までの道中は、なかなか信号機がなく、止まらない不安に駆られていた。浦幌、幕別などの地名を見る。帰宅後、今更ながら『銀の匙』にハマるのだが、エゾノーの学生たちはこの辺から来ていたのねぇ。 

 

帯広に着く。暗くてわからないが、国道沿いは私の地元と似ていた。たぶん、全国どこも似ているのかもしれないが。暗闇で畑や牧草も見えない。でも、帯広は再訪したい。(なぜなら銀の匙が好きだから……。いい物語だな。大学入学直後、先生(いまの指導教員)がこの物語を勧めてくださったのもわかる。)

 

競馬場、白樺の道などに行って、豚丼を食べたい。

 

帯広からやっと、高速に乗る。喜びも束の間、占冠〜夕張まで通行止めという表示を見る。それが何を意味するのか、知るよしもなく、呑気にSuchmosを聴いていた。真っ暗闇のstay tune 。

 

トマムのタワーが見える。むかし、トマムの宿に泊まったらしい。記憶がない。ここから下道へ。

 

恐怖の峠越えスタート。マジで光がない。頼れるのは車のヘッドライトのみ。反射材に助けられつつ、峠を越える。いくつものカーブを超える。カーブの度に祈る。時折窓の方に目をやると、針葉樹が見える。やはり針葉樹は冷たい印象を受ける。

 

梨木香歩の「水辺にて」においても、針葉樹の近寄りがたさが記述されていた。針葉樹への憧憬って、あるよね。

 

でも、この憧れは畏怖に近い。自然に対する畏怖。人工物に囲まれることを自明視しているが、実はそうではない。人間の脆弱さを改めて知る。光のない山の稜線を見る。こちらの山では鉄塔が光っているのに、夕張の峠には一切の光がない。

 

夕張から高速に乗った時の、安堵感たるや。以降、私は少し謙虚になったと思う。というより、幸運に対するハードルが低くなったような気がしている。

 

ネイチャーライティングに興味を持ったのは、この夜以降だった…私はもっと、森を知りたい。マルシャークの森は生きている、なのだ。

 

札幌は光でいっぱいだった。

 

翌日。小樽の美術館を巡り、北大の博物館を堪能したのち、空港へ。

 

似鳥美術館、とても良かった…日本美術の系譜を概観できるのだ。吉田博や川瀬巴水の特別展(銀行跡)も良かった。旅行先で、旅行の絵画が見れるなんて…!と嬉しくなった。

 

小樽は二年前も来ていたのだが、雪の日だったし、食がメインだったので印象は大きく変わった。美術を堪能できるのも良い。

 

北海道大学があまりにも素敵すぎて、研究室を調べてしまった。現実的には進学を考えられないけれどね。キャリア的にも、研究内容的にも。

 

高校時代に北大を訪れていたならば、目指していたかもしれない。柳の木の下で、本を読みたい。博物館で、ひたすら北方民族の民話を読む。もっと時間かけたかった…この辺りについては、民博で復習しようね。

 

千歳空港でも、スープカレーや四つ葉のソフトクリームを堪能し、飛行機へ。

 

今回の北海道旅行は、あまりにも収穫が大きかった。これをエンジンとして、修論がかけそうな勢い。

 

こんな調子だから、来年も北海道を訪れる予定だ。北海道大好き(雪の時期を知らないから…というのは、本当にそうなのだが)…

 

いつまで経っても南の方に興味がいかないのだが、来年は南の島にも行きたいと思った。夢に出てきたからです。仕事と節約頑張るネ、その前に修論か…

 

 

 

 

樅木のメタモルフォーゼ 道東旅行記②

暗闇の効用について考える。何かの記事で、暗闇での逍遥が、自然への畏怖を蘇らせると書いてあった。本当にその通りである。

 

北海道旅行の締めは、恐怖の暗闇峠越えであった。車の後ろには、一面の闇が広がる。街灯はない。釧路から札幌へと向かう旅路は、闇との向き合い方を考え直す契機になった。

 

さて、北海道旅行記録の続きを話そう。何を隠そう、この度は千キロ走破の旅だ。友人に運転してもらったことを話すと、新手のハラスメントか?と言われた。

 

確かにそうだ。わたしは一回もハンドルを握らずに千キロ旅してしまった。おかしい。わたしもハンドルを握れるようにしなければ。運転できることの必要性をひしひしと感じる旅であった。友人には感謝の気持ちでいっぱい。

(旅の後、何度も運転する夢を見た。ペーパードライバヴァーズミュージックはそろそろ卒業しなけれならない)

 

2日目。1日目の夜は、失言を多発していたので少々自己嫌悪に陥りながらの起床、でも知床の素晴らしい自然がそんな気持ちを吹き飛ばしてくれた。

 

f:id:moekie:20231004231813j:image

知床五湖の散策からスタート。雲で隠れていた知床連山が徐々に顔を出していく。

 

最初は電気柵を張り巡らせたウッドデッキを歩く。

尾瀬に行った時も思ったけれど、やはり人工物は直線的である。確かに、利便性の高い道だけど、これだけでは物足りない。

 

熊の恐怖に駆られながら、遊歩道へ降りる。

 

f:id:moekie:20231004232048j:image

こんなところでミャクミャクに出くわすとは思わなんだ。

 

木彫りの熊は全然怖くないし、テディベアは可愛い。

 

数学教師は、熊になぞらえられていた。

理由は「べや」が口癖だったから。どうやら先生は北海道大学を卒業しているようだ。大学で北海道の方言が身についたらしい。「言ってんべや!」とよく怒っていた。べや→ベア→クマ。いかにも中学生的な連想ゲームだ。

 

かく言うわたしも人のことがいえない。下手くそな関西アクセントがわたしの「語り」を支配するからだ。

 

f:id:moekie:20231004232134j:image

わたしの「語り」は、よく横道に逸れるが恐怖に支配されると一直線である。

 

熊がこわい!と言い続ける。八百円くらいの鈴を惜しむことなく買えばよかった。これから国立公園を巡るというのだから。

 

とりあえず手を叩いて、歩く。青山テルマばりに「わたしはここにいるよ」とクマに伝える。

念願成就したのか、熊には出くわすことなくゴール。最近クマの出没が増えているらしいから、運が良かったのかもしれない。いや、そもそもクマの棲家にお邪魔しているのだ。家主に合わなくてよかった、なんて泥棒じゃないか。

 

f:id:moekie:20231004232657j:image

見渡す限りの熊笹。鹿が熊笹の葉を喰む音に耳を澄ませる。熊じゃなくてよかった。電気柵にぶつかるところなんて見たくなかったんだわ。

 

耳をすませば、鹿。カントリーロードは鹿の棲家へと続いているよう。

 

 

皮肉なことに、入り口の店で鹿肉バーガーを食べる。ジビエは初めて。おいしかった。ここのお店、本当に魅力的な商品だらけだった。UTARIのステッカーがあまりにも可愛くて、購入。北海道旅行でいちばんお気に入りのお土産である。

 

f:id:moekie:20231004233007j:image

峠に向かう。快晴だった。海峡の対岸には島が見えた。

 

ここから阿寒湖へドライブ。延々と続く広大な風景に惚れ惚れする。わたしがユ〜ラシアの草原や砂漠に惹かれるのと同じだ。

 

それと、文学作品が誘ってくれたカナダやドイツの田舎の風景をも思い出した。たしか北海道の農場経営の方法って欧州由来だから、風景が似るのも納得か。ヨーロッパと気候が似ていたから、プラントハンターがこぞって北海道を訪れていたとか。『ふしぎな国のバード』で学んだ。あれ、いい漫画だからおすすめだよ。

 

そういえば、運転していた友人が「セイコマはドライバーにとってのオアシスだから」と言っていたのがよかった。確かに、この道はまるでシルクロードのようだ。ユーラシア!いつの日か行きたい。

 

 

阿寒湖までの道のりは長かった。針葉樹の山と鹿に出迎えられた。ここでガス欠したら、樅木が魔物に見えるだろう。脳内BGMは、シューベルトの魔王だ。Mein Vater,Mein Vater 魔王が怖いよ…というのだろうか。でも、大丈夫。ここにいるのは友人3人とわたし。旅は道連れ。道連れ…デスゲームが始まるところだった。

 

そんな妄想をしていたら阿寒の街につく。

山の中に豪華絢爛な旅館街あるのだから、シャングリラかと思った。もちろん、ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』のあれ。わたしは途中、気を失ってシャングリラへと迷い込んだのか…なんて。

 

f:id:moekie:20231004233127j:image

 

もちろんここはシャングリラではなく、阿寒湖だった。とても素敵な宿に泊まった。いいサービスだった。快適だった。…もしかしたら本当にシャングリラだったのかもしれない!帰りたくなかったもん。

 

楽園って、見方を変えればディストピアですよ、という指導教員の言葉を思い出す。確かに道中、徒歩で行くとしたらデスゲームが始まってもおかしくないような道が…樅木は怪物に見えたし…。

 

針葉樹ってエヴァーグリーンとか言われているけど、翻って生命を感じさせないのは一理あるかもしれない。糸杉はたしか不吉なイメージが付与されていたはず。宮沢賢治は「春と修羅」で、ZYPRESSEN と糸杉のドイツ語訳を使っていたっけ。針葉樹が好きなのは、照葉樹林の生い茂る穏やかな気候の都市に住む人間だからかもしれない。あまりにも緊張感に欠ける。

 

 

 

夜、阿寒湖畔を歩くアクティビティに参加。面白かった。アイヌに対するオリエンタリズムは感じざるを得なかったのだが、阿寒湖観光のあり方を振り返ると、このような延長にならざるを得ないのか…

 

釈然としない部分もあったが、わたしはナイトウォークを楽しむ。わずかな明かりが阿寒湖畔と山の稜線を照らし出す。そこにあるのは静寂だった。

 

マジカルな小道具を持って散策するのだが、最後軽トラに乗せられていくのがおもしろかった。夢破れて山河あり。ファンタジックな世界観が破れてもなお、阿寒湖は厳かな雰囲気を纏っていた。

 

さて、ここでも感じたのだが、闇はそれ自体、ファンタジーを構成する。闇にいることは、手探りで物事を感じること。生まれ直すことを意味するようにも思う。あらゆるものがシステム化された世界に生きていると、根源的な生を軽視してしまうように思う。

 

もちろん、この見解が言い古されたものであることは承知だが。 

 

本当の意味でのファンタジーは、プログラムが終了してから始まったといっても過言ではない。終業時間を迎え、真っ暗になった河畔の建物は、闇の神秘を告げる。これこそ、わたしが求めていたものかもしれない。

 

ただ、ちょっとわたしの関心がプリミティブな何かに寄ってることも否定できないと思う。闇を礼賛することは、前近代の憧憬である。これとアイヌオリエンタリズムは容易く結びつく。

 

阿寒湖の発展は、こうしたバナキュラーな文化の中に成立していたことを踏まえると、簡単に否定することはできまい。が、バブリーな観光地を見ると、無批判に楽しむこともできまい、と思う。

 

分岐点にある場所なのかもしれない。

 

ヘトヘトになりながら、温泉に浸かる。旅も後半戦、次の日は5時起きで美幌峠に行くのであった…。

 

闇と来たら次回は光の話!と言いたいところだが、恐怖の峠越えの話をしたいので、結局闇の話になる。陰翳礼讃なのである!

 

 

2023/10/3 目標宣言の随想

f:id:moekie:20231004001941j:image

ブルーシールアイスを食べた。アイスではない何か、でもとても美味しかった。もちろん沖縄に行ったわけではなく、内定式に伴い数百キロを移動したのだ。

 

内定式を終え、無事に帰る。式典が終わったことに安堵しつつ、わたしの学生生活を終結に向かわせる必要性を感じる。

 

修論さえしっかり書ければ、やり残したことはない!と言い切れる。自己や他者にうんと期待すること、何も考えずにあそぶこと、どうでもいいことに思考を巡らせること。無限だと錯覚してしまうような6年という時間のおかげで、たくさんのことを学ぶことができた。

 

早く就職してしまいたいでも、ずっと大学に残りたいでもなく、目の前にある幸福を逃さないように、手のひらにある幸せを実感できるよう、時間を過ごしていきたい。

 

ひとつ後悔があるとすれば、消化することを怠っていた、ということである。経験することばかり先走って、一つ一つを消化することを諦めてばかりいた。わたしが消費に走っていたのもそれゆえかもしれない。これからは資本主義のサイクルを回すことではなく、精読めいた生き方をしたい。スキャニングじゃなくて、精読。

 

ソーシャルメディアのあぶくのような情報ばかりをつかまない、発信しない。地に足をつけて物事を書く。これが目下の目標なのです。

 

10月初旬

わたしは中央値からけっこう外れてることが多い。性格診断の結果をみたら、わたしは明らかに中央値から外れている!小学生から感じていたコンプレックスが蘇ってきた。

 

旅行記を書き進めたいのに、書き進められない。書きたいことは山ほどある。

 

 

何かと移動することが多い。直近もリクルートスーツを着て新幹線に乗り込んだ。リクルートスーツは窮屈な服装であるし、私は就活後に修論のストレスで増量したのでパッツパツである。恥を忍んで生きている。

 

わたしは学校という場が苦手で、大学時代は唯一規範じみたものから逃れられたが、リクルートスーツという服装は一気に学校に引き戻す装置だ。

 

北海道の大地を歩いた記憶をかかえつつ、来年の旅路を思い描く。けっこう、希望はある。

 

何かと最近たらればを考えるが、本当はたらればなんてない。電車通学をしたことのない天然記念物なので、勤務場所はすごく考えた。長旅の通勤はしたくない、とか。

 

それに加えて、自分の考えを持っている人がたくさんいるところがよい、とも。言葉を選ばなければ、私はとてもアクが強いし、主張もする。社会に対して「適合」という言葉を使うなら、できない側だろう。オールラウンダーの人間が羨ましい。

 

社会に出たらガタガタの能力値の人間はキツいらしい。わたしもそのタイプ!でも、なんとかそういうところからなんとか距離をおけそうであるのは、私の運の良さに会話していると思う。

 

わたしの望んでいるものが、なんか手に入る気がする。たぶん幸せは手のひらの中にある。

今ある幸せを甘受しよう!と思えた日であった。

 

学び、かつ働け!しばらくこれで生きてゆきます頑張ります