Naegi

逍遥

すこやかな12月 / 2023の音楽と景色

論文執筆で命を削っている。

修論の文字数が10万字を越えた。

中間発表の資料をうまく繋ぎ合わせているので、一から書き進めているところは少ない。とはいっても、時間との闘いに焦燥を感じざるを得ない。11月はずっと体調が悪かった…。博士課程に進んでいたら、風邪が治らなかったかもしれない。良かった。

たしかに、今回の論文では博論のための土壌づくりができていると感じる。もう少し調査を進めれば、査読付き論文が数本書けそうな具合。でもこれ以上研究を続けたら体を壊しそうなので、諦めます。潔く。

 

そんな感じで12月がやってきたのだが、12月も相変わらず低空飛行を続けている。失われた体力を求めて。

 

書くことへの体力がなく、思いついたことが通り過ぎる日々が続いた。体調が悪すぎて、論文以外のことにまったく集中できない。アルバイト中も上の空。病欠で休むし、来てもぼーっとしているので、周りの人の顰蹙を買っている。それ自体には気づいているので、家に帰って沈み込んでしまう。

 

最近のことを思えば暗い話題が続くので、1年の振り返りをしよう。

まずは音楽について。

ちょうど10日くらい前にSpotifyまとめが出たので、これを参照して振り返ろう。

案の定、NewJeansをいちばん聴き込んでいたけれど、ほかのアーティストは去年と変わりがない。PerfumeCAPSULE、パソコン音楽クラブ、KIRINJIと続く。三つ子の魂百まで。

 

個人的名盤はSummer Eyeの『大吉』。その中でも、「失敗」は私のバイラルソングとなった。塩屋の旧グッゲンハイム邸で聴きたかったな。垂水の海岸線とサマアイ曲は、合う。ライブのロケーションも最高なんだよ。ceroのライブと被ったので断念。

 

 

満場一致でceroの『e o』もベスト・アルバム。これは古典になるよ。冬になって分かったことだが、このアルバムは冬の深夜が最も似合う。暗闇のなかの焚き火のような光を与えてくれる。

 

今年のよかった現場を書き出すと、Ginger Root、カネコアヤノ、cero

ceroについては、既に記事を書いたので省略するね。

 

長年の願望成就という意味でGinger Rootとカネコアヤノはベスト・現場だった。Ginger Rootについては、2020年の引きこもり生活を彩ってくれたアーティストなので、感無量だった。太平洋を越えてくれて、ありがとう。シティポップを作ってくれてありがとう、と感謝して向かった。が、箱を間違えて遅刻した。でも、Ginger Rootの演奏には間に合った。大好きなweatherやってくれてありがとうね。フワちゃんもストーリーあげててよかった。大好きな二人だよ。

 

カネコアヤノについては、本当に「救い」だった。就活でメンタルがどん底だったので…。ゆがんだ金属音に包まれた瞬間、私はライブに来たことを実感した。ライブって、こうだよな…とずっと考えていた。小さな体躯から、炎があがったように思った。私はかつて、火花と形容したけれど、火花どころではない。炎を見た。終演後、放心状態で晩ご飯を食べた。よい思い出だった。

 

次は、散歩について。

今年はとにかく歩いた。なんというか、学生生活ではじめて孤独と向き合えたという意味で、散歩は外せない話題である。孤独といっても、isolationではなく、
solitudeという意味の孤独で、人付き合いのしがらみのなさ、自由を謳歌した。社会に出る前の、ぜいたくな時間だった。もちろん、今年はけっこう、落ち込むことが多くて、修行のような日々がつづいたけれど、振り返ってみれば、案外わるくなかったと思えるような1年だった。私を支配するしがらみ、思い込みみたいなものを、俯瞰できた。散歩によって、思考が整理されていったのだ。

 

大きな役目を果たしたのは、散歩だった。近所はもちろん、浜辺を歩いたり、森のなかを歩いたり。思索の旅に出かけた。

 

上野公園で花を愛でて、須磨離宮公園で「ばらの花」聴きながら薔薇を観察した。飛鳥山あじさいがきれいだったし、そのあと飛鳥山公園サニーデイ・サービスのジャケ写を再現した。もちろん、大好きな「あじさい」を聴きながら。須磨浦山上遊園で海原の青を堪能し、セミの声に耳をすませた。

 

友人を伴うときもあれば、一人のときもあったけれど、どれも素敵な思索の旅だった。

旅といえば、今年は移動することが多かった。就活が苦痛だったので、しっかり逍遥の旅にも出た。

 

9月は阿蘇と道東に行った。阿蘇の草原と、知床の水平線はいまもずっと、心のなかに豊かな広がりを続けている。なんというか、私がここに在る意味を感じさせてくれる旅だった。友人と過ごすなかで、なにが私たらしめているのかを実感したし、未知の光景に心躍らす感情こそ、私を作っているのだなと思った。そして、友人の言葉の一つ一つも覚えている。凪いだ天草の海を背景に人生の話をしたり、北海道の満点の星空を見ながら、神秘について語ったりしたこと。忘れえぬ人々、忘れえぬ光景である。

 

そうだな、あとは読んだ本について考えたいのだけど、あいにく気力を持ち合わせていないので、また今度。

 

ご自愛しようね12月。健やかに行きましょう。

大学で得たもの 救いたいもの

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大学で得たものを一つ選んで答えよ、と訊かれたら、こう答えるだろう。

ひとが書いたものに寄り添って議論しようとする姿勢、だ。成功しているかはともかくとして、議論の姿勢はこの6年間で身についたと思う。

 

英語圏ではprinciple of charity (思いやりの原理、と訳される)をもって議論することが前提となっている。重箱の隅をつつくような指摘ではなく、筆者の意図を汲み取る。曲解しない。(でも鵜呑みにしない)言わんとすることを受け止めて、議論を進める。仮想敵を作って攻撃する(ストローマン論法)は避ける。単純な図式に落とし込まない。

 

かたや論破や嘲笑の文法が流布するインターネット空間では、水掛け論が続く。インターネットの文法に呑まれないために肝要なことである。でも、現実には至る所に歪みがあるから、「建設的に」「対等に」「相手に寄り添って」論じられないこともある。感情があるから。

 

クリティカルシンキングには限界がある。これをなんとなく実感できたのも、大学の学びによるものだろう。クリティカルシンキングの授業を思い出す。「でも、これは感情論ですよね」といったコメントから、感情論という表現にはどのような価値観が前提とされているのか。感情より論理は上位にあるのか。感情は事実を歪める。で、事実って何?と学生の疑問は膨れ上がり、結論は出ないまま授業中が終わった。

 

こうした視点も捨てないでいたい。でも、どこかで自分の感情をメタ的に捉える時点もほしい。相手の言葉を受け入れたい。でも鵜呑みにはしない。こうした対立点の落とし所をうまく見つけるのが、学ぶということ、考えるということなのだろう。

 

🦉🦜

 

小さな本屋に、私の研究テーマ全開の本が置いてあった。この本屋の客で、もっとも興味を寄せているのは私なのでは?とありもしない幻想をいだく。単行本だったし、学生とって優しい値段ではなかったけれど、買った。いままで貰った謝礼をつかって。QUOカードや図書カードの恩恵を受けている…

 

大学に近い本屋だし、私よりも詳しい人はたくさんいるのでは…と気づいたのは、本を買ったあとだった。

 

本を救いたい、なんてありもしない使命感を覚えちゃったよ〜。ストローマンじゃなくて、ストロー使命?燃やしてしまえ、ストロー使命。勝手に物語を作るな!!!!

 

と一通り憤ったけれど、本を買った日の買い物袋を空にするのはたのしい。そして積み上げられる本の山…本好き🎶というほど本を読んでいないが、本屋にいる時の幸せは、誰にも渡したくない。NO BOOK NO LIFE。あれ、どっちだっけ。

 

 

衒いのなさ

クリスマス・シーズンが近づく。サンタクロースに手紙を書くようにして、ほしいものを考える。ほしいものはなに?わたしは、衒いのなさがほしい。ないものがほしいって、へんだね。確かにへんだね。

 

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針葉樹が屹立する庭園🌲

 

 

一度衒ってしまうと、もう元には戻れない。よくトラウマの話で言われるように、一度まるめた紙のしわは、なくならない。

 

衒いのなさを手に入れることは、もはやできないけれど、「無邪気に」生きようとする試みをやってみよう。ものは試さなければわからないのだ。

 

逍遥と越境のエッセイ

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雨上がりにうんと晴れた日。雨の上がったあとがいちばん空気が澄む。太陽を照射する湖面もよかった。ここ一番のきらめきだった。

 

ようやく風邪も治って、外を逍遥するとなると、歩く意味をずっも考えている。修論のストレスを解消するために、お気に入りのケーキ屋に足を運び、外で煌めきを捉えることに最高の幸せを感じ、なぜ人をは歩くのか?歩かないことは不幸なのではないか?と考えを膨らませる。

 

今年のベスト本はハン・ジョンウォンの『詩と散策』だ。詳細は以下の書誌情報を参照されたい。

http://www.kankanbou.com/books/kaigai/kaigai_essay/0560

 

書肆侃侃房のnoteから、試し読みもできる。

https://note.com/kankanbou_e/n/ne6b7f6b465f3

https://note.com/kankanbou_e/n/nb1794bb351a6

 

散歩して肌で感じる季節の移ろいを完璧に捉えている。私だったら、煌めきという言葉で茶を濁すところなのに。著者は詩を引用して、その機微を表す。私はこのような表現者に対して、心の底から尊敬の念を抱いている。梨木香歩さんしかり、レベッカ・ソルニットしかり、博覧強記でありつつも、決してアームチェアに寄りかからない姿勢がたまらなく好きだ。自然を歩き、思索する姿勢に敬意を抱かざるを得ない。この延長上で、私はネイチャーライティングに関心を持っているのだが、目下の研究テーマではネイチャーライティングまで考えが及ばないかもしれない。いや、山岳文学まで裾野を広げれば不可能でもないが、岩肌をクライムするよりも、森林や草原の中を逍遥するエッセイや物語を読みたい。

 

病に臥せていたとき、宗谷丘陵や礼文・利尻の緑をひたすらスクロールしていた。あの緑が欲しい。行きたい。交通費を軽く計算して、来年とかのタイムスパンで行くのは難しいと判断したけれど、いつか絶対行く。稚内に行って、宗谷丘陵の白い道を歩く。風車を見る。海を渡って、利尻岳をみて、礼文の花を見たい。最低でも三泊四日か。休みが取れるといいな。海外旅行よりも、まずはこの旅行を実現させていきたい。来年は銀の匙聖地巡礼という一大イベントが待ち構えているので、悠長に待ちたい。

 

可能なら、MONO NO AWAREの出身地、八丈島にも行きたいと考えている…島に行きたい。旅に出たいよ…。私はたぶん、移動というテーマにずっと関心を寄せているのだと思う。幼い時には世界の国旗や民族衣装の本を好んで読んでいたし、昔から好きなテレビ番組は「世界の果てまでイッテQ」だし、小学生になって地図帳を得てから水を得た魚のように生き生きとしていたし、ノートに世界各国の文化について纒めていたし、高校の時は世界史の、特に「ヒトの移動」に関心を寄せていた。(こうした事情を傍観者として学べる、というか当事者として捉えなくてすむ状況の、特権性については

真摯に考えなくてはならないけれど。)私淑する作家の梨木香歩さんが鳥の「渡り」を繰り返し描いてきたからか、越境する移動について、常日頃から考えてきた。

 

安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」の「てふてふ」と梨木の「渡り鳥」は似ているかもしれない。実際、梨木のエッセイにおいて、窓に張り付いていた蝶に気づいた、という描写がなされている。…安西冬衛の一行詩については、地政学的観点からの論考を読み、そうした解釈ばかりしていた。かが、軽々と境界を超える動物の「渡り」やその表象については、改めて論を加えねばならない、と思う。梨木は師岡氏との往復書簡において、渡り鳥の特性について示唆的なことを言っていた。渡り鳥は根無草のように「根ざす」ことはできないけれど、境界線を超えて物事を見渡すことができる(うろ覚えなので、再度確認したいが…)ということ。

 

ただ、これが越境「者」になれば話は異なって、所属もなく、境界の意味づけに翻弄されてしまうのだ。「渡り鳥」は越境者のある種の目指すべき?というか心の拠り所としての、象徴かもしれない…なんて考えると、越境者のアナロジーとしての「渡り鳥」や「てふてふ」は、エンパワメントする役割もあるのか…と考えていた。境界の意味づけを軽々も超えていける動物に憧れるのかもしれない。二足歩行の我々は、自ら飛行することはできないのである。

 

と、飛行について考えると、再度、歩行という営為について考えなければならない!とも思う。レベッカ・ソルニットのWanderlust、修了までに読破しようね。

 

こうした話はやや抽象度の高い事柄といえるけど、わたしの研究内容は具体的な移動の話。探検記や旅行記を渉猟して、どうにかこうにか論を組み立てる。修論は書いていて、辛いけど楽しい。私は移動に関する話が好きなのだな〜と安堵もしている。 

 

修了までに、梨木の描いた「渡り」についてちょっとした論考を書きたい✍️もちろん論文はしばらく書きたくないので、アカデミックライティングとして書くつもりはない。エッセイ的論考を書きたいので、noteにでも投稿しようかな。noteでいいのかわからないし、zine作ってもいいかもしれない。とにかく、私は移動と越境について、「渡り」という観点で考える必要がある。それは、比喩的な渡り鳥もそうだし、実際の渡りもそうだし、ソルニットのエッセイのように渡りについて思索したい。

 

奇遇なことに、寺尾紗穂さんのEP「珈琲」(2013)を聴きながら、移動について考えている。寺尾さん自身、移民について本を出しているし、修論が落ち着いたら寺尾さんの新刊を読みたい。

 

EP収録曲の「ブラジルへ」がとても好き。

「いま花束に木の実を忍ばせよう 赤い木の実をブラジルの大地に植えてあなたは毎年何を思うだろう」という歌詞が良いのだ。植物の芽吹きは、人間の関係性に構うことがない。これは境界の意味づけを無効化する動物とも同じことが言えるだろうが、動植物の越境とパラレルな人間模様について、ずーっと考えている!

 

こんな状況だから、風邪でどこにも行けない事態がいかに辛かったか、わかるでしょう。

最後の一葉

ここ数日、風邪で外界との接続をほぼ断絶した状態にあった。予定キャンセルしたみなさま、大変ご迷惑をおかけしました。

 

喉の痛みから始まり、副鼻腔炎、咳…という典型的な風邪を引いたのは久しぶり。たいてい、軽い鼻炎で終わるから。鼻が弱いので半年に一度、鼻の調子を崩す。前回は3月の就職時期。ようやく解放された。

 

ストレスが溜まっている状況+プレッシャーの最中にあると、感情がコントロール不可能になる。ストレッサー(修論)が消えるまで、不特定多数の人とご飯食べるのは控えようかな…。免疫的な意味で。ストレスさえなければ、免疫強人間なんだけどな…。

 

体調不良時の外出って、病院かスーパーとの往復に留まるし、大抵めんどうで仕方ない。この世界を眺める余裕もない。リハビリに、と思って散歩に出かけたら(発症日から数えたら、外出は大丈夫な期間)、すっかり木が葉を落としていた。たった10日間大学に行かないだけで、これほど世界は変わるのか!と驚いた。

 

体調不良時は高温が続いていたのだが、急に寒くなったので、葉の色も変わったようだ。枯れている。

 

病み上がりの体で歩く並木道を見て気力をもらう。オーヘンリーの最後の一葉かよ。葉っぱが風に吹かれている様子を見、私も落ちないように頑張ろうと思った次第である。体壊さない程度に修論頑張ろう。

 

この体調不良で怒涛の図書延滞を食らったので、当分は手元の資料を分析して、論文を書く期間にしなければならない。うへーーー。

 

ジェットコースター並みの気温差ですが、ご自愛くださいませ。

 

 

論文をサボってずっとYouTubeショート動画を見てたら、言語能力が一気に落ちた。文章が書けない。恐ろしい。

 

体調が悪いと文章が頭に入ってこない。

ストーリー性のあるコンテンツすら追うのがしんどい。というわけで、短い動画を見るので精一杯。この期間に何度、空中浮遊ステップの動画を見たことが…。(ジプシーウーマンのリミックス、聴いたことがあったからバズって嬉しい気持ち) 

 

というわけで、文章を書くのがめちゃくちゃ下手くそになった。論文を書けるのか私は…!息を吐くように文章を書けていた時代は終わった……。

さて、いかにして文章を書くべきか…。

というか風邪で欠席した授業やシンポジウムの内容が面白そうだったのが悔やまれる…!こちとら学生期間半年以下なんだが。

 

でも、もうお腹いっぱいかな〜、学生楽しかったけどね。論文を書くのはしばらくストップします、この研究対象を追いかけるのも疲れた。 

 

しばらくソーシャルな場を避けて、論文を書かねば!つらい!でも、引きこもりたい欲もあるから別にいいかー。

 

 

 

 

悪夢絵巻

さいきんの様子?めちゃめちゃめちゃめちゃ不安!修論が書き終わるかわからない。人からどう思われるかわからない。でも、それは生命を脅かすほどでもないし、別に相談して解決するわけじゃないし、一過性のものだから、どうでもいいのだけど、でも局所的なストレスって、やっぱり精神を脅かしているのも事実!!!!

 

毎日毎日悪夢を見る。今日は飛行機がターミナルに墜落する夢を見た。わたしはどうにかこうにか逃げ出して、ことなきを得るのだが。この頃わたしが見てる夢 墜落 窃盗 逃げる夢 毎日知らない街にいる わたしは村上春樹の小説にいるのか?夢解きして、異世界に行かなければいけないのか?

 

胡蝶の夢なのか。わたしは誰の意識を生きているの?と問いかけると、修論ができないくらいなんたってこともない。それはわかっている。知っている。でも、6年学んだ集大成としての論文は、決して気を抜けないんだよ。To be continued が許されないんだよ。

 

セイタカアワダチソウが繁殖している。大学の庭園の侵入者。庭の荒廃は大学の経営が苦境のさなかにあることを教えてくれる。ツル植物が繁殖していると思えば、ついにセイタカアワダチソウが侵入した。わたしが入学したときは、綺麗に刈り込まれていて感心したものだけど。なんで!セイタカアワダチソウが許されるんだよ。

 

他者との境界線がうまく引けない、大人数との会話が苦手、コロナ禍の引きこもり生活は案外、わたしに安寧をもたらしていたことに気づく……… セイタカアワダチソウだ。

 

真面目な話をしよう。わたしは人の移動に関心がある。修論のテーマも、100倍くらい薄めて話したら人の移動だ。なぜ人間は外に出るのか!外の世界への幻想は?とか偉そうなことを言っているが、わたしはアームチェアに座りながらそんなことを書いている。めちゃ矛盾だ。

 

それでも、修論は書籍化したい!!!!修論って書籍化できるのか知らんけど)^o^(  書籍化したら、遠回しにこのブログで伝えるね。悪夢の成果だからさ… 

個人的には寺尾紗穂さんみたいな人になりたいのだけど…多分アカデミアに戻る経済的体力はないので、論文を書くというスタンスではないかもしれないけれど、文章は書きたい。多作な寺尾紗穂さんにずっと憧れている。音楽も好き。

悪意の仮面

少し前に書いた記事に、「森は生きている」というタイトルをつけた。これはマルシャークの有名な戯曲からとった。私自身も、小学校の学芸会のときに演じた。ストーリーラインはシンデレラに似ている。いじわるな継母役に立候補し、娘の得た金貨を持ち去る継母を熱演したのである。

 

あの時、私を駆動したものはなんだったんだろう。私は、あの時代、学年でいちばん勢力の強いグループから毛嫌いされていた。別に、自己への憐憫の念に陶酔しているわけではない。何が、私をいじわるな継母いたらしめたのか、という疑問をふと思い出したのである。

 

生きることはある種の演劇性があって、日々を過ごすにあたり、人間はペルソナをつけている。大仰にいっているが、自分のふるまいは環境に依存している。そう思うならば、私は役を増やしたかったのだろうと思う。嘲笑されるだけの者ではない、ということを誇示したのかったかもしれない。

 

それでも、私が主人公ではなく、底意地の悪い人間を演じたかった理由は、一考の余地が残されているように思う。

 

たぶん、私にも思考があることを示したかったのではないか、と思う。なんというか、私はただ弱くて、泣き顔しか見せない、無知で純朴な人間と思われることが恥ずかしかった気がする。悲しさに暮れるだけではないのだ。私は集団のストロー・マンではなく、血の通った人間であることを示したかった。悪意を跳ね返すようなタフネスを持っている。そう思って、悪意に駆られる人間を演じたのかもしれない。

 

ただし、私が演じた訳は、底意地の悪い継母役だということだ。シンデレラよろしく、幸せな結末を迎えることはない。いくら舞台上で底意地の悪い台詞を吐いたとて、待ち受けているのは破滅の道である。私の演技は、一笑に付された。

 

たかが学芸会の演劇空間だが、学年のパワーポリティクスが働くもので、イケている人たちはそれなりにイケている訳をやるもので、誰もやりたくない、意地悪ばあさんは、現実でも忌み嫌われる。

 

それから私は演劇に無縁の生活を送ってきたわけだが(だいいち、声に張りがない)、時折、あの演劇を思い出すのである。