Naegi

逍遥

大学で得たもの 救いたいもの

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大学で得たものを一つ選んで答えよ、と訊かれたら、こう答えるだろう。

ひとが書いたものに寄り添って議論しようとする姿勢、だ。成功しているかはともかくとして、議論の姿勢はこの6年間で身についたと思う。

 

英語圏ではprinciple of charity (思いやりの原理、と訳される)をもって議論することが前提となっている。重箱の隅をつつくような指摘ではなく、筆者の意図を汲み取る。曲解しない。(でも鵜呑みにしない)言わんとすることを受け止めて、議論を進める。仮想敵を作って攻撃する(ストローマン論法)は避ける。単純な図式に落とし込まない。

 

かたや論破や嘲笑の文法が流布するインターネット空間では、水掛け論が続く。インターネットの文法に呑まれないために肝要なことである。でも、現実には至る所に歪みがあるから、「建設的に」「対等に」「相手に寄り添って」論じられないこともある。感情があるから。

 

クリティカルシンキングには限界がある。これをなんとなく実感できたのも、大学の学びによるものだろう。クリティカルシンキングの授業を思い出す。「でも、これは感情論ですよね」といったコメントから、感情論という表現にはどのような価値観が前提とされているのか。感情より論理は上位にあるのか。感情は事実を歪める。で、事実って何?と学生の疑問は膨れ上がり、結論は出ないまま授業中が終わった。

 

こうした視点も捨てないでいたい。でも、どこかで自分の感情をメタ的に捉える時点もほしい。相手の言葉を受け入れたい。でも鵜呑みにはしない。こうした対立点の落とし所をうまく見つけるのが、学ぶということ、考えるということなのだろう。

 

🦉🦜

 

小さな本屋に、私の研究テーマ全開の本が置いてあった。この本屋の客で、もっとも興味を寄せているのは私なのでは?とありもしない幻想をいだく。単行本だったし、学生とって優しい値段ではなかったけれど、買った。いままで貰った謝礼をつかって。QUOカードや図書カードの恩恵を受けている…

 

大学に近い本屋だし、私よりも詳しい人はたくさんいるのでは…と気づいたのは、本を買ったあとだった。

 

本を救いたい、なんてありもしない使命感を覚えちゃったよ〜。ストローマンじゃなくて、ストロー使命?燃やしてしまえ、ストロー使命。勝手に物語を作るな!!!!

 

と一通り憤ったけれど、本を買った日の買い物袋を空にするのはたのしい。そして積み上げられる本の山…本好き🎶というほど本を読んでいないが、本屋にいる時の幸せは、誰にも渡したくない。NO BOOK NO LIFE。あれ、どっちだっけ。

 

 

衒いのなさ

クリスマス・シーズンが近づく。サンタクロースに手紙を書くようにして、ほしいものを考える。ほしいものはなに?わたしは、衒いのなさがほしい。ないものがほしいって、へんだね。確かにへんだね。

 

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針葉樹が屹立する庭園🌲

 

 

一度衒ってしまうと、もう元には戻れない。よくトラウマの話で言われるように、一度まるめた紙のしわは、なくならない。

 

衒いのなさを手に入れることは、もはやできないけれど、「無邪気に」生きようとする試みをやってみよう。ものは試さなければわからないのだ。

 

逍遥と越境のエッセイ

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雨上がりにうんと晴れた日。雨の上がったあとがいちばん空気が澄む。太陽を照射する湖面もよかった。ここ一番のきらめきだった。

 

ようやく風邪も治って、外を逍遥するとなると、歩く意味をずっも考えている。修論のストレスを解消するために、お気に入りのケーキ屋に足を運び、外で煌めきを捉えることに最高の幸せを感じ、なぜ人をは歩くのか?歩かないことは不幸なのではないか?と考えを膨らませる。

 

今年のベスト本はハン・ジョンウォンの『詩と散策』だ。詳細は以下の書誌情報を参照されたい。

http://www.kankanbou.com/books/kaigai/kaigai_essay/0560

 

書肆侃侃房のnoteから、試し読みもできる。

https://note.com/kankanbou_e/n/ne6b7f6b465f3

https://note.com/kankanbou_e/n/nb1794bb351a6

 

散歩して肌で感じる季節の移ろいを完璧に捉えている。私だったら、煌めきという言葉で茶を濁すところなのに。著者は詩を引用して、その機微を表す。私はこのような表現者に対して、心の底から尊敬の念を抱いている。梨木香歩さんしかり、レベッカ・ソルニットしかり、博覧強記でありつつも、決してアームチェアに寄りかからない姿勢がたまらなく好きだ。自然を歩き、思索する姿勢に敬意を抱かざるを得ない。この延長上で、私はネイチャーライティングに関心を持っているのだが、目下の研究テーマではネイチャーライティングまで考えが及ばないかもしれない。いや、山岳文学まで裾野を広げれば不可能でもないが、岩肌をクライムするよりも、森林や草原の中を逍遥するエッセイや物語を読みたい。

 

病に臥せていたとき、宗谷丘陵や礼文・利尻の緑をひたすらスクロールしていた。あの緑が欲しい。行きたい。交通費を軽く計算して、来年とかのタイムスパンで行くのは難しいと判断したけれど、いつか絶対行く。稚内に行って、宗谷丘陵の白い道を歩く。風車を見る。海を渡って、利尻岳をみて、礼文の花を見たい。最低でも三泊四日か。休みが取れるといいな。海外旅行よりも、まずはこの旅行を実現させていきたい。来年は銀の匙聖地巡礼という一大イベントが待ち構えているので、悠長に待ちたい。

 

可能なら、MONO NO AWAREの出身地、八丈島にも行きたいと考えている…島に行きたい。旅に出たいよ…。私はたぶん、移動というテーマにずっと関心を寄せているのだと思う。幼い時には世界の国旗や民族衣装の本を好んで読んでいたし、昔から好きなテレビ番組は「世界の果てまでイッテQ」だし、小学生になって地図帳を得てから水を得た魚のように生き生きとしていたし、ノートに世界各国の文化について纒めていたし、高校の時は世界史の、特に「ヒトの移動」に関心を寄せていた。(こうした事情を傍観者として学べる、というか当事者として捉えなくてすむ状況の、特権性については

真摯に考えなくてはならないけれど。)私淑する作家の梨木香歩さんが鳥の「渡り」を繰り返し描いてきたからか、越境する移動について、常日頃から考えてきた。

 

安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」の「てふてふ」と梨木の「渡り鳥」は似ているかもしれない。実際、梨木のエッセイにおいて、窓に張り付いていた蝶に気づいた、という描写がなされている。…安西冬衛の一行詩については、地政学的観点からの論考を読み、そうした解釈ばかりしていた。かが、軽々と境界を超える動物の「渡り」やその表象については、改めて論を加えねばならない、と思う。梨木は師岡氏との往復書簡において、渡り鳥の特性について示唆的なことを言っていた。渡り鳥は根無草のように「根ざす」ことはできないけれど、境界線を超えて物事を見渡すことができる(うろ覚えなので、再度確認したいが…)ということ。

 

ただ、これが越境「者」になれば話は異なって、所属もなく、境界の意味づけに翻弄されてしまうのだ。「渡り鳥」は越境者のある種の目指すべき?というか心の拠り所としての、象徴かもしれない…なんて考えると、越境者のアナロジーとしての「渡り鳥」や「てふてふ」は、エンパワメントする役割もあるのか…と考えていた。境界の意味づけを軽々も超えていける動物に憧れるのかもしれない。二足歩行の我々は、自ら飛行することはできないのである。

 

と、飛行について考えると、再度、歩行という営為について考えなければならない!とも思う。レベッカ・ソルニットのWanderlust、修了までに読破しようね。

 

こうした話はやや抽象度の高い事柄といえるけど、わたしの研究内容は具体的な移動の話。探検記や旅行記を渉猟して、どうにかこうにか論を組み立てる。修論は書いていて、辛いけど楽しい。私は移動に関する話が好きなのだな〜と安堵もしている。 

 

修了までに、梨木の描いた「渡り」についてちょっとした論考を書きたい✍️もちろん論文はしばらく書きたくないので、アカデミックライティングとして書くつもりはない。エッセイ的論考を書きたいので、noteにでも投稿しようかな。noteでいいのかわからないし、zine作ってもいいかもしれない。とにかく、私は移動と越境について、「渡り」という観点で考える必要がある。それは、比喩的な渡り鳥もそうだし、実際の渡りもそうだし、ソルニットのエッセイのように渡りについて思索したい。

 

奇遇なことに、寺尾紗穂さんのEP「珈琲」(2013)を聴きながら、移動について考えている。寺尾さん自身、移民について本を出しているし、修論が落ち着いたら寺尾さんの新刊を読みたい。

 

EP収録曲の「ブラジルへ」がとても好き。

「いま花束に木の実を忍ばせよう 赤い木の実をブラジルの大地に植えてあなたは毎年何を思うだろう」という歌詞が良いのだ。植物の芽吹きは、人間の関係性に構うことがない。これは境界の意味づけを無効化する動物とも同じことが言えるだろうが、動植物の越境とパラレルな人間模様について、ずーっと考えている!

 

こんな状況だから、風邪でどこにも行けない事態がいかに辛かったか、わかるでしょう。

最後の一葉

ここ数日、風邪で外界との接続をほぼ断絶した状態にあった。予定キャンセルしたみなさま、大変ご迷惑をおかけしました。

 

喉の痛みから始まり、副鼻腔炎、咳…という典型的な風邪を引いたのは久しぶり。たいてい、軽い鼻炎で終わるから。鼻が弱いので半年に一度、鼻の調子を崩す。前回は3月の就職時期。ようやく解放された。

 

ストレスが溜まっている状況+プレッシャーの最中にあると、感情がコントロール不可能になる。ストレッサー(修論)が消えるまで、不特定多数の人とご飯食べるのは控えようかな…。免疫的な意味で。ストレスさえなければ、免疫強人間なんだけどな…。

 

体調不良時の外出って、病院かスーパーとの往復に留まるし、大抵めんどうで仕方ない。この世界を眺める余裕もない。リハビリに、と思って散歩に出かけたら(発症日から数えたら、外出は大丈夫な期間)、すっかり木が葉を落としていた。たった10日間大学に行かないだけで、これほど世界は変わるのか!と驚いた。

 

体調不良時は高温が続いていたのだが、急に寒くなったので、葉の色も変わったようだ。枯れている。

 

病み上がりの体で歩く並木道を見て気力をもらう。オーヘンリーの最後の一葉かよ。葉っぱが風に吹かれている様子を見、私も落ちないように頑張ろうと思った次第である。体壊さない程度に修論頑張ろう。

 

この体調不良で怒涛の図書延滞を食らったので、当分は手元の資料を分析して、論文を書く期間にしなければならない。うへーーー。

 

ジェットコースター並みの気温差ですが、ご自愛くださいませ。

 

 

論文をサボってずっとYouTubeショート動画を見てたら、言語能力が一気に落ちた。文章が書けない。恐ろしい。

 

体調が悪いと文章が頭に入ってこない。

ストーリー性のあるコンテンツすら追うのがしんどい。というわけで、短い動画を見るので精一杯。この期間に何度、空中浮遊ステップの動画を見たことが…。(ジプシーウーマンのリミックス、聴いたことがあったからバズって嬉しい気持ち) 

 

というわけで、文章を書くのがめちゃくちゃ下手くそになった。論文を書けるのか私は…!息を吐くように文章を書けていた時代は終わった……。

さて、いかにして文章を書くべきか…。

というか風邪で欠席した授業やシンポジウムの内容が面白そうだったのが悔やまれる…!こちとら学生期間半年以下なんだが。

 

でも、もうお腹いっぱいかな〜、学生楽しかったけどね。論文を書くのはしばらくストップします、この研究対象を追いかけるのも疲れた。 

 

しばらくソーシャルな場を避けて、論文を書かねば!つらい!でも、引きこもりたい欲もあるから別にいいかー。

 

 

 

 

悪夢絵巻

さいきんの様子?めちゃめちゃめちゃめちゃ不安!修論が書き終わるかわからない。人からどう思われるかわからない。でも、それは生命を脅かすほどでもないし、別に相談して解決するわけじゃないし、一過性のものだから、どうでもいいのだけど、でも局所的なストレスって、やっぱり精神を脅かしているのも事実!!!!

 

毎日毎日悪夢を見る。今日は飛行機がターミナルに墜落する夢を見た。わたしはどうにかこうにか逃げ出して、ことなきを得るのだが。この頃わたしが見てる夢 墜落 窃盗 逃げる夢 毎日知らない街にいる わたしは村上春樹の小説にいるのか?夢解きして、異世界に行かなければいけないのか?

 

胡蝶の夢なのか。わたしは誰の意識を生きているの?と問いかけると、修論ができないくらいなんたってこともない。それはわかっている。知っている。でも、6年学んだ集大成としての論文は、決して気を抜けないんだよ。To be continued が許されないんだよ。

 

セイタカアワダチソウが繁殖している。大学の庭園の侵入者。庭の荒廃は大学の経営が苦境のさなかにあることを教えてくれる。ツル植物が繁殖していると思えば、ついにセイタカアワダチソウが侵入した。わたしが入学したときは、綺麗に刈り込まれていて感心したものだけど。なんで!セイタカアワダチソウが許されるんだよ。

 

他者との境界線がうまく引けない、大人数との会話が苦手、コロナ禍の引きこもり生活は案外、わたしに安寧をもたらしていたことに気づく……… セイタカアワダチソウだ。

 

真面目な話をしよう。わたしは人の移動に関心がある。修論のテーマも、100倍くらい薄めて話したら人の移動だ。なぜ人間は外に出るのか!外の世界への幻想は?とか偉そうなことを言っているが、わたしはアームチェアに座りながらそんなことを書いている。めちゃ矛盾だ。

 

それでも、修論は書籍化したい!!!!修論って書籍化できるのか知らんけど)^o^(  書籍化したら、遠回しにこのブログで伝えるね。悪夢の成果だからさ… 

個人的には寺尾紗穂さんみたいな人になりたいのだけど…多分アカデミアに戻る経済的体力はないので、論文を書くというスタンスではないかもしれないけれど、文章は書きたい。多作な寺尾紗穂さんにずっと憧れている。音楽も好き。

悪意の仮面

少し前に書いた記事に、「森は生きている」というタイトルをつけた。これはマルシャークの有名な戯曲からとった。私自身も、小学校の学芸会のときに演じた。ストーリーラインはシンデレラに似ている。いじわるな継母役に立候補し、娘の得た金貨を持ち去る継母を熱演したのである。

 

あの時、私を駆動したものはなんだったんだろう。私は、あの時代、学年でいちばん勢力の強いグループから毛嫌いされていた。別に、自己への憐憫の念に陶酔しているわけではない。何が、私をいじわるな継母いたらしめたのか、という疑問をふと思い出したのである。

 

生きることはある種の演劇性があって、日々を過ごすにあたり、人間はペルソナをつけている。大仰にいっているが、自分のふるまいは環境に依存している。そう思うならば、私は役を増やしたかったのだろうと思う。嘲笑されるだけの者ではない、ということを誇示したのかったかもしれない。

 

それでも、私が主人公ではなく、底意地の悪い人間を演じたかった理由は、一考の余地が残されているように思う。

 

たぶん、私にも思考があることを示したかったのではないか、と思う。なんというか、私はただ弱くて、泣き顔しか見せない、無知で純朴な人間と思われることが恥ずかしかった気がする。悲しさに暮れるだけではないのだ。私は集団のストロー・マンではなく、血の通った人間であることを示したかった。悪意を跳ね返すようなタフネスを持っている。そう思って、悪意に駆られる人間を演じたのかもしれない。

 

ただし、私が演じた訳は、底意地の悪い継母役だということだ。シンデレラよろしく、幸せな結末を迎えることはない。いくら舞台上で底意地の悪い台詞を吐いたとて、待ち受けているのは破滅の道である。私の演技は、一笑に付された。

 

たかが学芸会の演劇空間だが、学年のパワーポリティクスが働くもので、イケている人たちはそれなりにイケている訳をやるもので、誰もやりたくない、意地悪ばあさんは、現実でも忌み嫌われる。

 

それから私は演劇に無縁の生活を送ってきたわけだが(だいいち、声に張りがない)、時折、あの演劇を思い出すのである。

落ち葉の行き場

 散った金木犀の香りは旬の過ぎた蜜柑に似ている。金木犀の断末魔のような、甘い香りに出くわす。甘いんだけど、なんかくどいというか、独自のえぐみを持っている。これは、冬の終わりの蜜柑のようだと思う。回想に残存する香り。旬の過ぎた匂い。こうしたものを捨てずに抱きかかえたい。

 金木犀の香水を持っている。購入した当時は毎日つけるほど気に入っていたのだが、うんざりしてきた。金木犀の香りにも辟易するくらい。微量がちょうどいいものって、ある。菓子パンの類もそうなのだ。小学生の時に大好きだったメープルメロンパンを思い出す。我が家のルールに、土曜日の朝だけ菓子パンを食べてよい、というルールがあった。スーパーで菓子パンを選び、土曜日に食べる。こうしたルーティーンも、面倒くささに負けて、毎週メープルメロンパンを食べる習慣へと変容していった。大好きだったから、選択の余地なくメープルメロンパンを食べていた。

 今や、メープルは好き好んで食べない味である。もちろん、もらったお菓子は喜んで食べるのだが、自らメープルフレーバーのものは買わない。カナダ土産のメープルクッキーはとてもおいしかったけれど、メープルメロンパンにうんざりした記憶を呼び起こさざるを得なかった。おいしいけれど、毎日食べると辟易するもの。

 私は恋愛を、こうしたジャンルにカテゴライズしている。大学に行けば、身を寄せ合って歩く恋人たちをよく見かける。大学入学当初は少し羨望の眼で見ていたし、恋人がいたときは楽しかったけれど、今や菓子パンのように胸やけを催す。恋愛至上主義に毒されたとか、そういう話をしたいわけではなく、人間との距離の話なのだ。一人の人間と向き合うと、胸やけしそうで。メープルメロンパンのようにならないのか。すこし懐疑的である。たぶん、切り干し大根のように、飽きの来ないものを選べばよいのだけど。

 食べ物と恋愛のアナロジーはまぁ、そのセンシュアルなイメージが付きまとうが、その意図はない。ぱっと思いついたのが、JAWNYのHoneypieだ。あの曲のグルーヴが大好きで、よく聴いているのだけど、その典型例だ。

 さて、話を戻そう。結局、金木犀の香りじゃなくてサボンの香りに落ち着いた。幻想に生きることは難しい。来春から社会人として働く身なので、いい加減何かの幻想に縋りつくことにも飽きてきたのだ。学生生活があまりにも幻想で彩られていたから。新たな人との出会い、学びへの期待とか、そうしたものが一気に現実へと変容していく。金木犀の浮世離れしたイメージも、とうとういやになってきた。フジファブリックの楽曲に心酔していた時代は終わった。冷めてしまったのか。冷めたものを温めなおすような気力はない。冷めたまま、放っておいてもよいかもしれない・

 

久々に初対面の人に囲まれる機会を得た。あ、いつものキャラを演じているぞ、と自分に気づく。○○さんって人を褒めてばかりですよね、と言われる。人の美点・欠点に人一倍気が付くので、良いことは口に出していく。というか、自分が確立されていないゆえ、人と比較し、時として劣等感を感じるから、気づくのかもしれない。まぁ、美点・欠点とは書くけれど、そこに価値判断を過剰に入れ込む必要はない。ただ、そういう人なのだ、という事実を伝えているだけ。

 

究極な人見知りなのかもしれない、とも思う。私は発話量が多い。とにかく一気に言葉を発するタイプのコミュニケーションを取る。私の強みはコミュニケーション力です!とリクルートスーツ着て言い張れるほどだ。でも、相手の気持ちを引き出したいのは、自分の話をしたくないからなのだ、とも思う。口頭での自己開示はとても恥ずかしい。できるだけ文字ベースでやりたい。私は自己を語るとき、できる限り文字媒体で書きたいのだ。話すのがうまくないからか?口頭でのコミュニケーションでは、あまり自己を開示していないことに気づく。

 

占いに行ったとき(この話をよくするが、ある占い師に行ったときの話を繰り返しているだけ。一回きりの話)、あなたは自己開示をしないよね、本当の自分って全然人に見せてないよね、好き嫌いあるよね、と言われたことがある。首肯する。一見すると、そうではない。外向的な人だとよく言われる。実はね、自己開示に対する拒否感が高くなると、人の話を聞きたがるんだよ。

 

知は力になりうるのか?なんて大仰なタイトルでブログを書こうとした。大学で文学や歴史について研究していて、メタ的に物事を捉えるようになる。フレームを捉える。ステージに立つ人間ではなく、劇場を劇場と認知して眺める観客というべきか。内容よりもフレームばかりに目が行ってしまう。悪い癖だと思う。

 

斜に構える。書かれた文字を文字通り受け取らない。しっかり根拠を持ちながらも、文章の裏に込められた意図・作者の無意識なバイアスを探る。そうした作業を繰り返すと、書くことに対して意欲を失ってくる。表現することの非対称性を改めて感じる。シェイクスピアが言ったように、生きるということはある種の演技というものを伴う。生きている限り、役者をしなければならない。俯瞰することなんて、できない。俯瞰したと錯覚するならば、それはただの思い込みで、メタ的に捉えてやったとしたり顔しても、そこには無意識のバイアスがひそんでいる。絶対に正しいなんてことはない。表現者への敬意はずっと持っていたい。このままでは、ただ他者を断罪するだけの人間になってしまうのではないか、という気持ちが少なからずある。

 

知を力、権力としてふるまうことは私は嫌だ。わかったふりをしすぎている。役者なのに、粋がった批評家然として生きているのではないか。そうした疑問は消えない。大学という場所はとても素晴らしく、数多くの人から薫陶を受けた。私は大学が好き。いつか帰りたい。でも、大学の人にはなりたくないとうっすら思っている。在野でものを書く人になりたい。ロールモデル寺尾紗穂さん。大学の外に根を張って、調査したいと強く願っている。