足が冷えて痛くなったのでこたつのスイッチを入れたら寝られなくなりました。こたつは魔の箱。
前の記事で、散歩している時が一番アイデアが湧くと書きましたが、
とりわけ、雑踏に流されているときが一番冴えるんですよね。
一人で暗闇を歩くときってどこかで警戒心が働いて思索に耽る場合じゃなくなるんですよ。だから、周りに適度な騒がしさがあるなかで歩くときって考えに没入できて好きです。その瞬間もわたしは好きだなあ。
数年経って、急にある日常の光景が想起されることってありません?
最近は、数年前に記録的な大雪が観測された際に地元の山でスキーできないか考えたときの光景がフラッシュバックしました。
ああ懐かしい。
こうやって、一人で雑踏を歩いている時の光景を数年経って思い出したらその時のわたしはどう今の私を捉えなおすのだろうか、と考えてしまいます。
あの時はお気楽だったなあと思うのでしょうか。
社会人になって荒波に揉まれて、過去を振り返った時に今の私が批判的に思われたらいやだなあ、とか思いますねえ。
というのも、高校生のときのわたしを振り返ってみると、あの時知っていた世界はあまりにも狭すぎた、と思うんですよね。
それはそれでよいと思うんですけど。
ああ寒い。
べつに暗くなっているわけではないですよ(笑)
ただ、雑踏のなかでいろいろ考えたわけですねえ。
今日は節約という概念を考え直していました。
私はふだん節約をしなきゃ!と言いながら節約を怠っています。
それはどうでもいいんですけど、公共交通機関を利用せず徒歩や自転車で目的地に行くことは節約になりますね?
電車代はつもりにつもり、それがいつの間にかおいしい食べ物に変わっていたり、かわいい洋服に変わってたりするんですよね。
ここで、電車代を惜しまなかった場合を考えてみましょう。
お金は飛んでいきますが、疲れはたまりません。
快適に目的地にたどり着けるわけですね。
なぜ快適なのにこれが「節約」という行為になるのでしょうか。
まず、前者は「食べたいものが食べられて幸せ」「かわいい服が着られて幸せ」という欲求が満たされて幸せ、というプラス方向の欲求が満たされて幸せなのですが、後者は「疲れなくてよかった」という感じです、マイナスの可能性が打ち消されただけなので、ここに余計な幸せは生まれないから「節約」になるんですよね。どうせなら余計なしあわせがほしい、と。
あー。でも電車の車窓から見える風景すきなんだよね。
電車のまどから見える風景を楽しんだら「節約しなかった」と言うことにはならないはず。
プラスのしあわせを味わいたいですね。
お金をつぎ込んだからと言ってプラスの幸せを得られるわけじゃないっていうのも事実だと思います。
「時間がないから」という理由で飛行機に乗ったら、街並みをそこで暮らす人と同じ目線で見えない。「街並みをじっくり見たい」との理由でローカル線に乗って移動することはたとえ時間がかかったとしても幸せだと思います。
あー、わたし理詰めで物事を説明するのニガテだなー
今日もなんか小説を書こうかなあと思ったのですがねむいのでまた次にします(^^)
ここで読書録。
喪失感って埋めるものじゃなくて埋まるものなんだなあと感じた一冊。
不倫してた失恋して女性が里帰りして地元のひとたちとふれあいっていく中で心にぽっかり空いた穴がふさがっていくという話。
目の前にその人がいなくても夢の中で出てきたり、日常の一コマで思い出しちゃったりする描写が切なかったけど、その喪失感って何か代替できるもので補うんじゃなくて、新たな出会い、繋がりが生まれて気づいたらその傷がいえてたって流れが好きだな。
いまは「蜻蛉日記」と室生犀星の作品を読みたいなあと思っています。
「おまえじゃなきゃだめなんだ」という力強いタイトルに心惹かれて角田光代さんの作品を読んでるんだけど、やっぱり短編恋愛小説は読んでいて楽しいし、創作意欲が湧いてくるな~。恋愛における悲喜こもごもを短い文章で表したい。関係ないけど、角田さんってメニューのことをメニュウって表記しがち。
ああ、最近「温泉」「ゆっくり」で検索しがちなんですよね。
疲れてるのかなあ。年末は温泉に行ってくるので癒されます。
はやく免許とっていろんなところ巡りたいって思う。
若いうちにいろんなものを見たいし、そこで感じたものを文字にしたい。
今回はここまで。