Naegi

逍遥

私は道が好きだ。鉄道や道路、岐路のような熟語における「路」も。移動に心を弾ませる性分ゆえに、研究対象も人の移動に関するものだった。rolling stoneであることに価値を見出すから、転石苔むさず、とは相容れない。これはキャリアに関する話ではなく、移動に関する話である。概念としての、移動。

 

人生を道に喩えるのは野暮なことだと思っている。それは北海道のような直線的な道路が想定されるからで本当は複数の道が入り組んで、時に交差したり袋小路になっているから。ライフプランのチャート図には直線はないだろう。

 

交差とか経過とかそういう概念を愛してきた。

好きな言葉の一つに「あわい」がある。グラデーションのようなニュアンスを含んでいて、そして「淡い」と同音異義語で、優しいから。論文にも「あわい」という言葉をひそませたかった。

 

好きな雑誌はTransitである。名前からすでに好きだ。異文化と私を繋ぐ紐帯のような存在である。単なるガイドに留まらず、文化的背景まで迫る編集の妙にいつも舌を巻く。まさしくTransit のための雑誌である。

 

今年は大きくライフステージが変わる年だからこそ、トランジションの疲れを感じている。写真を振り返っても、いつも疲れている。特にハードワークな訳ではないが、取り巻く環境をガラリと変えることは非常に骨の折れることだ。

 

最近の記事で訴える内容がほぼ同じ結論に落ち着いているのを見ると、つまらない人間になってしまったなぁと落胆してしまう。が、無意識のうちにあらゆるリソースを消耗しているんだろうなと思う。発電効率の悪さに失笑してしまうところだが、私なるものがいかに環境に依存しているのか、実感させられた出来事だった。

 

働くと本が読めなくなる、の話を常にしている。

私も怖いのだ。一つの環境に身を置くことが。ポリフォニーとしての生活を成立させること。これが当面の目標である。ややもすると、一つの価値体系に自分を当てはめて、勝手にしんどくなってしまう。受験生時代の私がそうだったし、学部3年生くらいまで同一のコンテクストであらゆるものを解釈する癖があった。どんぐりの背ならべなのに、勝手に比較していたし、そもそも立っている場所も違うのに高低差を比較していた。

 

文字にするとナンセンスな方がわかるが、習慣は怖い。環境によって人間の習慣は変わり、習慣はいつのまにか骨の髄まで染み付いてしまう。だからこそ、一つの価値体系に依存しない生き方がしたい!だから多声的な暮らしを実現していきたい。複数の旋律が響きわたるような、そんな暮らし。

 

何に抗うのかよくわからないが、読むこと・書くことは抵抗となる。資本主義のサイクルに組み込まれてしまった以上、欲望と思考を切り離しておきたい。疲れてインスタグラムをスワイプしながら欲しいものを探し、週末は幾重にも線路が交差する駅で買い物を行う。確かに気晴らしにはなるけれど、最終的な充足感に結びつくか?と言われるとそうではない。

 

結局、没頭できる時間が自分を労わっているのだと思う。ジャーナリングがセルフケアのための方法として確立されているけれど、そうなのだ。

ただし、明瞭な言葉を与えしてまうことで心の不可になることはあるのだけど。それでも、水の下に潜っているような、書いている時間だけはあらゆるしがらみから自由なのである。

 

自己と他者のあわいを行き来しながら、常にトランジットしていく。その意味で、本当に人生は道なのかもしれない。古くからある細い路地のようなものが正しいのかも知れない。東京の路地であって、整然と整えられたニュータウンの道ではない。

 

この路を辿って、織物を織るようにして生活を続けていきたい。生活もまったく、テクストなのだ。梨木香歩さんの『からくりからくさ』で提示されていたように、世界は一つの織物。もつれることもある。そのテクストを自分で作っていく。物事を少しだけ、コントローラブルな部分に置いておく。それだけでも、ケアなのだ。私の物語は私が編んでゆく!

 

…かっこよく決意したものの、環境要因に依存する部分も大きい。エクリチュールの概念がまさにそう。書いているのではなく書かされているのだ、と習った通り、私の物語も私の範疇に留まる話ではない。

 

ポリフォニーとしての暮らし、の実践においてこの角度は大事なのかもしれない。書くことでアンコントローラブルなものを受け入れる、すなわちネガティブケイパビリティを担保できるのだ友思う。秩序立てて言葉にすることで、少しコントローラブルになる。それでも我思う故に我あり的な角度ではなく、混沌とした人生をモザイク画のようにしつらえることは可能だと考える。

 

書くことの実践が「路」なのである。