あなたは自分の言葉で生きているから素敵だよ、と言われたことがある。最上級の褒め言葉だと思う。
わたしの言葉ね。わたしの今の言葉は、わたしの根っこから離れている気がする。うまく紡げない。言葉未満の、断片が漂うだけだ。
世の中にはいろんな人がいる。
そんなことを軽々と請け負うには純粋すぎたのかもしれないし、もはや諦念で満たされているのかもしれない。
組織で働くということは、自らの言語を手放すことなのか?自問している。少なくとも、私生活においては、手放したくないものなのだが。
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最近某メディアを賑わせている新入社員、実はちょっと面識ある方なんですよね。番組でキツくん弄られているのを見ると、自分と重ね合わせてしまう…自分も新入社員だから余計に。
確かに言葉選びとか、同世代の言語とは異なるかもしれないが、彼もまた自身の言葉で生きている。それを全うするために、つたえるお仕事を選んだだけなのに、スタンダードに外れているだけのことをつつかれるのは話が違う。尤も、それで話題性を生んでいるのだから、組織的な意味で見れば大きな貢献なのかもしれないが。
ああした弄りって社会の至るところに存在するんだよね。学友を思い浮かべると、彼のように自分の言語を持っていた人がたくさんいて、口々に「学校で浮くことが多かった」と言っていたな。
だからこそ人文学を選んだのだろうけれど。スタンダードを進んでいたら、暗黙の了解を見つけづらくなる。そもそも、つまらないじゃん?
自分の言語で生きているだけで(迷惑をかけていないのに!)、とやかく言われる時代は終わりにしようね。