Naegi

逍遥

君はどう痛みと向き合うか

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ライフステージの違いによって、友人関係の縁がよく切れると言われる年代。それが20台後半なのだ。1ヶ月に一回は入籍の報告を目にする。完全に自他境界が引けているかといえば疑わしいが、うっすらと土俵の違いを感じるので、そこで明白な境界が生まれるわけではない。入籍に伴う話で縁を切るかといわれれば、そうではない。どちらかといえば、休日にリソースを割けるかどうか、が焦点なのではないか、と思っている。

 

学生時代は裾野を広がることに執着していたが、そろそろ広げた風呂敷を折り畳まなくてはならない、と気づき始めている。スマホをいじってばかりいるので、自分の気持ちに鈍感になっているきらいはある。それでも、私はストレージはパンク気味であることを、ついに気づいたのであった。

 

時間があったので、最近のジャーナリングの記録を見返した。ネガティブな内容が多かった。私はその痛みに気づけないまま、責任を自らに帰することなくフラストレーションを溜めていた。これは、あらゆることに当てはまること。端的に言えば、自分に寄り添えていなかった。

 

毎日気を張り詰めているので、まあまあ睡眠は浅い。途中覚醒することもしばしば。眠れない日もある。こうした状況なのに、まだ風呂敷を広げようとする。自他全てに対して批判的になることもあったのに、だ。他者に優しくするには、第一に自分を満たす必要があるとはよく言ったものだが、なかなか実現はできない。

 

ソーシャルメディアの宇宙を漂っていると、痛覚が麻痺してくる。境界が引かないから、フラストレーションをうまく受け止めきれない。

 

もう少し入力を減らす必要があるのだ。情報量を減らせばもっと幸福に生きれると思う。私はとにかく入力しすぎたのだ。負荷をかけすぎた。

 

 

北海道の田畑を見る。自然の美しさを受け止めるには、少し容量が足りなかったかもしれない。

旅行はとても楽しかったが、学生の時のように湧き出る気持ちを記録に残せない。(歩く中で、うまく思考できていない。)情報が処理できていないから。眠れないから、疲れも溜まっている。

 

ファーム富田でラベンダーのポプリを買った。ラベンダーには安眠効果があるというから、ラベンダーへの神頼みということで、枕元に置く。

 

17年前もファーム富田でポプリを買ったが、宿泊した宿に置いてきてしまった。たいそう気に入ってベッドの中に入れたのが悪かった。北海道の大地を走っている最中に、ポプリがないことに気づき号泣した。あのポプリはすぐにゴミ箱に捨てられたことだろう。そして、あの宿はすでに廃業しているようだった。

 

かつて泣いていた小さな少女を救う。今回の旅で少し達成できた気がする。枕元のラベンダーの香りで、かつての痛みを癒す。

 

私は過去の痛みに囚われているのかもしれない。

インナーチャイルドを癒す、とはよくスピリチュアルの文脈で聞く。インナーチャイルドという言い方は避けるが、過去の痛みはどこかで向き合う必要がある。

 

社会に出て、改めて過去の傷が膿んでいることに気づく。あ、これどこかで読んだかもしれない。梨木香歩の『裏庭』だ。消費対象としての癒しに抵抗する物語である。暴走する装いと、痛みをともなう癒し。膿を出すには、もう一度痛みを乗り越えなければならない、と思った。

 

中高時代にいじめられた経験は、人間関係の構築においてノイズを生んでいると思う。「〇〇さんは完璧主義だから」とよく言われるが、私が本当の意味で自己開示できないのは、かつての痛みに起因するのだろう。人に対する精査も、自分に対する精査も厳しくなる。

 

スタンダードに沿うことが学生時代以上に求められる社会人生活において過去の記憶はなかなか嫌な作用の仕方をしている。

 

さて、どうしようか。もう一度、梨木香歩の『裏庭』を読もうか。あれは児童文学だけど、大人になって読んだら別の角度で解釈ができるように思う。