Naegi

逍遥

ノートの隅にある愛が

いま、とある作家の研究をしている。

恋慕していた時の日記が、没後発行されることになる。これが本になるなんて、想定していなかっただろう。

 

自分だけに向けた日記が、数十年の時を経て公開されてしまう。果たして私が読んでいいのだろうか。

罪悪感を感じながらも、ページを進める。

…人の家の台所を盗み見る感じ。空き巣のような感覚。見ることを許されていない。

 

 

近代文学の全集において、作家の書簡など、私的な文書も収録されている。

 

研究の裏付けに必要…とはいえ、人のプライベートの領域に侵入するのは、いかがのものか。鬼籍に入っている人間の記録でも、やすやすと見ていいものではない気がする。

 

 

でも、わたしはノートに書き殴られた恋慕の軌跡を見て、なんか安心してしまった。

 

人は、常に毅然と生きる必要はないんだって。

 

 

数十年後、ここのブログがなんらかのかたちで本になったら嫌だな。インターネットの墓場に持ってくぞ…

 

 

幼い時から、人に文章を読まれることは得意ではなかった。

 

いや、小学生の頃までは、意気揚々と作文を書いて、先生や親に見せていた。

 

中学に進学すると、自意識に妙な恥ずかしさをおぼえ、日記をしたためたノートを隠していた。

おそらく、読まれていたのだろうけど。

 

今もその癖は治っておらず、知り合いに文章を読ませて!と言われると、だいたいはぐらかしてしまう。

恥ずかしいから。

 

それでも、TwitterInstagramにブログのURLを載っけてしまう。なんという自己矛盾。

 

たぶん、面と向かって読まれるのがあまり得意なのではないと思う。

 

みなさん、読むならこそっと読んでくださいね……!

 

 

意図に反して本にされてしまった作家を思うと、辛くなる。

 

読まれたくないものが、世に出る。

研究者サイドとしては、なんとしてでも見つけてやる!と思うのだが、創作者の立場になれば話は別。

 

このような矛盾をかかえながら、研究に取り掛かろうと思うのです…