Naegi

逍遥

フィクションが怖い

幼いころからディズニーランドが苦手だった。

フィクションの世界が怖かったからだ。

 

ここでは別にオリエンタリズム的観点から批評するわけではなく、単純に自分の経験からディズニーへの恐怖感を述べていこうと思う。

(ディズニーへの批判意図は全くないことを断っておく。ディズニーに行けば、嬉々としてアトラクションに乗ったり、お土産を買ってしまうタイプの人なので…。)

 

入り口付近は、まだよかった。

舞浜駅イクスピアリは、まだ「現実世界」にあった。

 

ただ、入り口付近の陽気な音楽からダメだった。

ようこそディズニーランドへ!的なアナウンスから私は恐怖心を感じていた。

「ここはどこだよ。さっきまで海沿いの高速道路にいたのに、なぜアメリカ」

 

急激に1920年代のアメリカにすっ飛ばされる感覚がもうダメだった。

なんで急にグレートギャッツビーなんだよ。っていつも思ってた。

(ディズニーシーの、「ベニスに死す」から「グレートギャッツビー」にすっ飛ばされる感覚もダメ。あと、なんでベネツィアから海底二万哩の世界なんだよ~っていうツッコミもある)

 

この目まぐるしく変わる世界観が怖かった。

 

開拓期のアメリカにいるかと思いいきや、熱帯雨林に変わり、戦前のアメリカに戻るという時空のゆがみ。

 

怖い。

 

中東風の店でインディアンカリーを食べる瞬間も、恐ろしい。

(シーに行くと、お昼はカレーが鉄板なんですワ)

なぜ、こんな訳の分からないフィクションの世界でまともでいられるのか。

幼少期から、ディズニーに行くたびにえもいわれぬ不安に駆られていた。

 

特に、夕方が駄目だった。

 

海底二万哩の世界で、夕焼けを見るほど恐ろしいことはなかった。

特に、付近の売店でコースターの走る音を聞くのが怖かった。

 

なぜ、わざわざこんな怖い思いをするために高いお金を払うのか、私は分からなかった。

 

幼かったから、これを表す的確な言葉が見つからず、「でぃずにーいくのがいや」というささやかな抵抗しかできなかったのだった。

 

なお、幼少期は首都圏在住だったので、それなりの回数行っていたらしい。

年パス買う程の熱量ではなかったのだが。

 

小学生も高学年になると、とりあえずディズニーを楽しめるようになったのだが、やはり夕方の時間はダメだった。

 

海の底(と言う設定)で、どうでもいいことを延々と悩んでいた。

なぜ、ここはこんなに怖いのだろうか。

早く現実世界に戻りたい。

 

この類の悩みは、夜のパレードやショーを見る事でふっと消えて行ったのだが。

 

ちなみに、私は家族以外の人とディズニーに行ったことはまだない。

 

最後に行ったのは、高校1年生のころだから、この感覚はおぼろげなものである。

 

友だちとディズニーに行けば、大丈夫なのだろうか。

 

ユニバは普通に楽しめたので、ディズニーも楽しめるのだろう、と今のところは踏んでいる。

 

まぁ、どうでもいい話をつらつらと書き連ねてきたのだが、根本的にフィクションが怖い。

 

精神的に弱っている時、フィクションを見れない。

 

コロナの第一波が吹き荒れていたころ、私は映画や小説を楽しめなかった。

 

ひたすらくだらないバラエティ番組を見て、心を癒していた。

 

文学専攻なのに、映画や小説が苦手。

矛盾している。

 

ちなみに、最近悪夢を見るので、目覚めたときの幸福度はいつも高い。

夢だったのか、と興ざめするのではなく、安堵する。

 

ディズニーシーから見えた現実の東京湾や帰りの首都高に安心するのと同じ感覚である。

 

ほどほどのフィクションは必要だが、フィクションの世界に浸るのは怖い。

バランスをとるのが難しい。