Naegi

逍遥

花束みたいな恋はしない

先日、「花束みたいな恋をした」を観てきた。

当初はawesomeがこの映画でバズってんな!くらいの認識だったけど、(いわゆる)シティポップとカテゴライズされる音楽も複数登場する、ということを知り、観に行くことにした。

 

端的に言うと、サブカルの「アイデンティティ」は好きな音楽によって規定されるという、あのヤな"自意識が溢れた映画で片腹痛かった。

 

胃がキリキリして直視できなかったシーンも複数あった…

 

まず時系列順に私の感想をまとめます

ここから先、ネタバレ注意です。

 

まず、麦と絹は明大前で出会う。

終電逃したからといって見ず知らずの人と居酒屋行きます?と堅実な私()は思ってしまった…のはさておき、そこで出会う麦と絹の他に、もう1組の男女に出会う。

実写版「魔女と宅急便」が好きだと語る、自称映画好きと、「すご〜い❣️」と男が喜ぶさしすせそ、ばかりを口にする女。

これはメインストリームにハマる「表層的なファン」に対する寓意的表象か?

それに対して、押井守を「神」、実写版映画を「悪」とする""サブカル""系の麦と絹は、違和感を募らせる。

 

2人にとって、前者の男女は「ミーハー」かつ「軽薄」だと映ったはずだ。

その軽薄な男女はタクシーに乗って去っていく。

おそらく、、、

 

残された麦と絹は、ひととおり自分の気持ちを話す。そこで趣味の一致を確認し、心を開く。

たぶん、ここで恋が始まるポイントなんよね〜

 

サブカル自意識的に、嬉しいポイントなんだろうね。(棒)

 

2軒目に行き、趣味の話に花を咲かせる。

なんかアナ雪のあのシーンを彷彿させるようなシーンだよな…ヤバ王子とまた一緒だ❣️て盛り上がるやつ。

 

個人的に、「cero」「高城さん」「Roji」という単語が出てきて、盛り上がったんだけど、確かにこのふたりはcero好きそう…(偏見)

舞台が東京の西側てのもceroに重なるというか…

 

それはさておき、話も盛り上がったところで絹は麦の家に行きます〜(ヒイィィィ)

 

さすがに初対面の異性の家に上がるとか、貞操観念〜😇と思ってしまう私だったけど、麦がクソ男じゃなくて良かった…と変に安心してしまうのでした。

 

トイレットペーパーてめちゃくちゃ象徴的な小道具だと思った。

絹が買った2つのトイレットペーパーを2人で分けて持つ。トイレットペーパーって生活の象徴よな、、、としみじみしながら観てた。

 

ーーーー

個人的にしんどかったポイントをまとめてみます。

 

①固有名詞に対する気持ちが明示されてない

今村夏子が好き、穂村弘が好き…

きのこ帝国が好き、フレンズが好き。

だから?という感じなんだよな、、

どこが?なんで?どのように?好き?と疑問に思う私はめんどくさい人間なのだろう。

 

ただ、この人たちは別に「推し」として応援してる訳ではないのだろう、、

なんとなくエモいから、聴いてたらオシャレだから、、みたいな感覚で推してるのだろう。

その自意識こそ、サブカル自意識にほかならないのだろう。

 

「ワンオク聴く?」と訊かれて「聴けます」と答えた麦は、サブカルのめんどくさい部分が詰まっている。

好きなもので自己を定義し、そして他人をも定義してしまう、厄介な性質なのだ。

 

②絹にイラつく

長い間、このふたりは同棲するんだけど、結局すれ違いが何度も繰り返して同棲を解消する。

 

原因はライフスタイルの違い。

絹は比較的余裕のある生活をするんだけど、麦は社畜になる、つまり朝から晩まで仕事のことばかりになってしまう。

 

大好きな映画も、小説も、音楽も、麦の頭から消え、しまいにはパズドラに夢中になるばかり。

これに対して絹はフラストレーションを溜める。

 

この絹ちゃん観てて「はぁ?麦のことちゃんと見てねーじゃん」とイライラしてたわけですが、それもそのはず。麦に恋したのも「趣味が同じ」という理由だから。

きっかけは別になんでもいいけど、それを本質にしたらその関係は続かないだろうね、、

好きなものが変わったら、もう愛せなくなるの?

そんなの、まやかしの恋愛だよ、と。

絹は変化を認められないわけですが、その原因として麦を直視出来てないからなんだよね。

 

なんか絹って無気力系というか、すごく淡白な人間だな〜と思ってたんだけど、基本他人には興味無さそう。

 

というわけで、私はこの女にイライラしながら映画を観ることになったのです

 

③最後のファミレスシーンがしんどい

 

羊文学のライブで知り合ったという男女が登場する。

長谷川白紙、崎山蒼志が好き、と意気投合する。

 

ああ、過去の私たちのようだ…と思った麦と絹はひとしきり泣く。

 

まーた固有名詞が使われてしんどった…

特に羊文学大好きな私は「こう見られてんだ…」というある種の恥じらいを感じましたね、、、

長谷川白紙も好んで聴くので、、、、

 

いやぁ!羊文学聴く人が最初にぱゅ(長谷川白紙)のこと言うか?カネコアヤノか柴田聡子らへんをまず言うよな!!!!!と思ってしまった私も、麦と絹とグルなのです、、、

何も言えねえ、、、、

 

たぶん、この男女は私と同世代。

その妙な一致に自意識がやられてしまった。

 

ーーー

フラストレーションは溜まったとはいえ、「好きなことを仕事にして何が悪いの?」と憤る絹ちゃんのセリフはグサッときたな、、

 

したくもない就活で、やりたくもない仕事への志望動機を語り、自己欺瞞に陥った私に絹のセリフはいやーな音を立てて響いた。

 

なんかね、絹の生き方を理想論に過ぎない、と落ち着けてしまう私にも嫌気がさしたかな、、

 

あと、絹の両親は広告代理店勤務だから実家太いしな…と邪推してしまう自分にも嫌気がさした。

 

結局、生き方ってわりと生まれた環境に左右されてしまうんだな、と現実を突きつけられる映画でもあった。

 

もし、麦の実家も太ければ、このふたりはゆっくり暮らせたんだろうな、とも。

 

ーーー

 

良くも悪くも、この映画は観る人のバックグラウンドによって印象が変わる映画だなと思う。

 

なんというかリトマス紙みたいな…

 

サブカル男女の自意識を観にいったつもりが、私の生き方を見直すことになってしまった(大袈裟)

 

以上。