Naegi

逍遥

灰色の春

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去る時は早く去りたい一心だったのに、すでに関西が恋しい。阪急の接近音を聞く。なんて、ロマンティックなのだろう。関西で6年間過ごせたことは、幸福だった。新しい街は、プレーンで味気のない街だ。関東全体、というと嘘になるが、やはり山が見えないと落ち着かない性分だ。関東平野は広すぎる。あの日々は、何だったのだろうか。

 

私は現在地に対するうっすらとした嫌悪感を拭えない。これは、別に特定の組織や場所を指すわけではなく、なんというか、日々の倦怠感と上手く付き合えていない。

 

大人になったな、と思う。Perfumeあ〜ちゃんが、25歳は大きな節目だと話していた。確かに25歳は大きい。会社の同期は、結婚前提に交際している人が多いし、人によっては同棲している人もいる。会社の年次の近い人でも指輪をつけている。確かに20代も後半だ。

 

倦怠感は、こうした周囲への意識に起因していると思う。組織に入り、学校を思い出した。同期とお弁当を食べる。人生の話をする。結局、横並び的な視線から逃れることは難しい。

 

薄々感じていた。他者と対峙するのが怖い。飲み会でテキトーな話をつらつらと続けることは得意だが、本質に迫る話はどうも苦手で、本音は心の奥底にしまうようになった。大人とはこういうことなのだ、と腑に落ちた。つまらない。

 

勤労は楽しい。毎日決まった時間におきて、せっせとご飯を作り、通勤電車に揺られるのは、それほど苦痛ではない。

 

ふとした瞬間に見えるダルな気持ちに対して、私は常に困惑する。楽しいはずの生活、楽しまなきゃという困惑。なぜ、これほどまでにつまらないのか?家事がめんどくさいから?

 

一応、人文学を修学した身として、退屈のやり過ごし方については、会得したと思ったのに。小学生の頃から、いや幼稚園の頃からずっと感じていた、永遠に孤独で、退屈で、悲しい隙間にある。

 

ただ、唯一の希望があるとするならば、旅だ。私はとにかく旅に出たい。直近では北海道に行く予定があるが、いつかタスマニアに行きたい、と思いようになった。Geo guessrをプレイしていて、たまたま出てきたニュージーランドの光景が美しく、オセアニアに行きたい、という気持ちが芽生えた。ニュージーランドも良いが、まずはタスマニアに行きたい、と思うようになってしまった。

 

なぜか。パオロ・ジョルダーノの小説の、『タスマニア』を思い出したから。ただ、それだけ。私が犬のマルチーズに惹かれて、マルタに向かった時の衝動と似ている。初めての海外なのに、なぜか留学という名目でマルタに向かった。

 

別に結婚も恋愛もしたくないな、と最近気づきつつある。他者に幻想を抱くフェーズは終わった気がする。それならば、と私は旅に出ようと思う。逍遥することが私の人生なのだ。

日々の労働と、美術

いざ組織の中に入って、意思伝達を行おうとしてもうまく行かない。

肩の力が入ってしまって、妙な文章になる。

私はこの前の記事で、組織の規範や慣例を「文法」という言葉で言い表したけれど、まさに私は「文法」を習得中で、同じ部署の人にメッセージを送るだけで時間を費やしてしまう。

 

学生時代は別に、特定の組織に対するロイヤリティーを持つ必要はなかったので肩ひじ張らずにメールを送りまくっていたのだが、賃金労働者となると、別。コミュニケーション一つを取っても、能力が試されているように感じてしまう。

 

「文章って怖いよなぁ」

指導教員はいっていた。メールの文章一つで、その人が文章を書き慣れたひとかどうか、思考が得意なひとかどうか、わかってしまうらしい。言わんとすることは分かる。

文章を読めば、その人が体系的な知識を持っているか、それとも無秩序な知識の海をなんとか渡海しようとしているのか、わかってしまうような気がする。

私は圧倒的な後者で、毎日新しい事象に触れ、脳みそがパンク状態にある。

簡単な文章一つもロクに書けず、社用パソコンのキーボードの仕様に慣れず、ミスタイプばかりしている。

 

でも、そんな日常も愛おしい。何度も引用していることだが、翻訳家の岸本佐知子さんは『ねにもつタイプ』において、会社員という生き方を肯定している。

 

フリーランスやフリーターと違って、組織の一員になると、制約だらけで窮屈だ。でも、その制約の中で否応なしに出会わされる人や物事や状況は経験のデータベースとなって、いつかきっと翻訳の役に立つに違いないからだ。

岸本佐知子『ねにもつタイプ』より

 

この組織に就職しなかったら、出会わなかったと思うと、人の縁は不思議なものだ。

 

制約は一見すると窮屈に見えるが、日常を輝かせてくれるのも事実である。

(もちろん、度を超した制約を許容すべきとは到底思えない)

時間や空間の制約に慣れず、毎日ヘトヘトになりながら床に入り、一気に朝を迎える。

それでも、大学時代よりも「生きている」実感を得てる。

人生において、無駄なことはないのだ。

 

 

上野に行ってきた。

千駄木駅で降り、ずっと行きたかった本屋に行く。

私の愛読書が並べてあったので、これは私の好きな本と出会えるな、という確信を得た。石垣りんと、ジュンパ・ラヒリのエッセイを買う。

 

詩というのは、世界を書き換えることだ!という気づきを得た一日でもあった。

詩人・作家のエッセイを抱え、東京藝術大学から上野公園へと抜ける。

 

藝大の展覧会『敷居を踏む』に行く。

とてもよかった。美術が敷居(=権威?)として機能していることを踏まえ、敷居を越境する試みがなされていた。展示されるのは、いわゆるファインアートとは一線を画したもの。淀みのなさ、とは違うけど、決して淀みでもない。社会が目を背けて来た存在に対して、迫る。

美術館の建物という、既成の箱を刷新しようという姿勢も感じられて、よかった。

 

決して、美術はインテリアに溶け込むものではないが、だからといって肩に力を入れて鑑賞するものでもない。

 

こうした発想に対して、明確な輪郭を描いたのは、国立西洋美術館の 『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』展だった。

 

本当にすごい美術展だった…。よくここまで出来たな、と思ったし、そう思わざるを得なかったことの意味を考える。この展覧会では、美術のカノンとは明確に、距離を置いている。周縁に置かれた存在に目を配る。そもそも、周縁って?こうした問いは美術展全体に響き渡っていた。藝大の企画展と共鳴する展覧会であったことも、明らかである。

 

スポンサーの川崎重工業に対して、展覧会出品者が抗議したことは記憶に新しい。

 

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美術という権力構造について。

美術館という箱について。

美術館の外に広がる、上野という土地について。

 

既成の美術展では、不可視とされてきた存在に光を当てる。

 

とても良い展覧会であった。

後日、改めて図録を買った。美術カタログにしては珍しく、書籍として販売されているので入手しやすいので、ぜひ。社会人1年目にしては贅沢な買い物だということは承知のことだが、それにしても、何度も見返したい美術展だったので、図録を購入したことは妥当であろう。

 

 

なんのために働くのか、という問いに対しては「生きるため」という答えがすぐに思いつくが、その次に「思考するため」という答えがあると思う。

パンがなければ思考はできない。

 

とはいえ、職場というサイロに縛られ過ぎても思考はできない。だからこそ、私はデスクに夜遅くまで縛り付けられるような仕事は避けた。休日、美術展に行ける余力を残せるように。

 

学割を使えなくなって初めて美術は贅沢品だったということに気づき、唖然とする。

 

美術の力を真の意味で発揮するためには、もっと公共性といったものを保持したほうが良い。2,000円は高いでしょう。ますます、美術は「敷居」として機能してしまうのではないか。

 

こんなことを考えながら、労働者として労働を行う。

思考し、かつ働け。

これが私の目下の目標である。

 

雪の枝

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ちょうど一週間前、友人たちと京都へ出かけた。

一週間でこれほどまでに世界はドラスティックに変わるのか…という驚き。私は、言語の使用の面から、全て「社会人」的なものへの変更を迫られている。絶対に、こうしたものから逃れてやる、と決意していたものの、早速流されそうで怖い。

 

就活中、親しい人から「絶対に魂だけは売るな」と言われた。それは、千と千尋の神隠しにおいて、千尋が名前を書き間違えたように。本当に大切なものは、絶対に売り渡したくない。

 

さっそく、社会人になって感じたこと。それは、空の美しさを礼賛する余裕がないこと。写真を撮る暇がないのだ。学生時代のカメラロールを見返すと、私は常に、大学の周りの池や空、木々をカメラに捉えていた。オフィスにいると、そうした空気を感じることはできない。

 

外を歩きたい。逍遥したい、という欲求は日に日に増していく。私は、決して、組織において潤滑油になれない人間だということをさいきん、強く感じている。当たり前のことができない。

 

学歴は仕事の出来を保証するわけでもない。学生時代の華やかな経歴や強いガクチカがあるからといって、うまく働けるわけではない。一つの事例から、全てを敷衍して考えるには無理がある。

 

もう少し割り切れるのかと思ったが、週5勤務は思ったよりも生活を支配する。気を抜いたら、きっと労働のことばかり考えてしまう。開始2日目にして、不安な気持ちに支配されて、悔しい。それでも私には、しなやかさがある。それはどんなに重圧があっても折れないレジリエンスの強さだ。雪に耐える木の枝のように、どんな重圧に出会っても、しなやかに軽やかに乗り切ってみせるのが私なのだ。大きな不安と、自分への失望。こうしたものを保存しているストレージを別のものに変換したら、きっと私は飛躍できるのだ。

そう信じている。

雲をつかむ

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椿。

ついに労働者となった。私は組織のコマに過ぎない。ジェーン・スーの生活は踊る、を聴いている。組織で働くということは、私という自我を潜めることなのだ、と合点がいく。

 

今までは自我が全てだった、みたいなところがある。自我を潜めることはできるのか。いや、その反動で退勤後に文章を書き殴っている。私の「語り」を許せ。

 

周りから、とても心配されているけれど私はエイリアンなので、どこに行っても3ミリくらい浮いている。この地球をうまくサバイブできない。普通の人が軽々とできることを、3倍くらいの時間をかけてしまう。文章を読むことと、駄文を書き連ねることだけが、唯一人並みにできることである。文章を読み飛ばす速度だけは早い。しかし、そんなスキル、どこで役に立つのか。修士号を取ったとて、当たり前のことを当たり前にできなければ、賃金労働者たりえないのである。

 

お花を生ける。花を咲かせている。救いだ。私は、何のために生きているのか。帰途につきながら悶々としていた。が、そんなことは一生わからないし、考えても仕方がないと思う。一つ一つの言語の使用に、居心地の悪さを覚えながら、夕闇の街を歩く。

 

通勤時間で本を読んでいる。私が組織の文法だけに囚われないようにするためだ。人類学者のジリアンテッドが提唱したような、インサイダー兼アウトサイダーの立場を意識したい。どこかのツイートで見たけれど、フィールドワークに来た研究者と思えば、気が楽になるのかもしれない。わたしはわたしの文法で。組織の文法を使うのは、あくまで働いているときだけ。

 

とはいえ、私が本当に組織の文法を使いこなせるようになるのか、甚だ疑問である。最終面接の時は堂々と話せたのに、全てが真っ白になって、力が抜けていた。別人のようになってしまった。先週までの私は、大学院生だった。大学院生という肩書は、案外心地の良いものだったようだ。戻りたくはない。

 

私はうまく、泳いでいけるのだろうか。

学生からの卒業

重い腰を上げて、学生時代の振り返りを書こう。この6年間は濃密で、一言で集約することなどできないから。車窓を見れば、菜の花が咲き乱れていた。春にも、魔物がいる。霞に唆されて、花たちが一斉に咲き出したのだろう。こうした気候と、環境の変化にどうかしてしまいそうだ!と思いながら、書こう。

 

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大好きなキャンパス。修了式前後はずっと雨が降っていたのに、この日だけは晴れていた。この日が私の最後の登校日だった。些細な事務的手続きのため、泊まっていた京都からわざわざ足を運んだのだ。でも、この煌めきを見れば、すべてがどうでもよくなってしまった。わたしの6年間、この風景にずっと救われていた気がする。

 

M2のころは繭のようなものに、ずっとくるまっていたような気がする。外界から刺激を受ける余裕がなかったのだ。宮地尚子さんの、『傷を愛せるか』に書いてある通り、飛翔の前には繭にくるまる時間が必要なのだ。飛行機が離陸する前の、緩慢な動き。あれに近い状態であった。

 

友人に助けを求める余裕もなく、毎日暗い部屋で論文を書いていた。これは自我通り、暗い部屋で、なぜか電球をつけるのが嫌だった。ずっと低空飛行を続ける時間だった。無事、修論の試問にも通って修了することになったのたが、悔しさは残る。教授たちの講評を聞いていて、もっと頑張れたのに、と思うも、頑張ることはできなかったのだ、と自分を慰める。頑張りたいのに頑張れない時は存在する。そんな自分を受容する。院生時代の私にはできなかったけど、これからは大丈夫。練習すれば良いだけなのだ。社会人としての自分に対して、いっさい期待していない。

 

式辞を聞いて、思ったこと。

 

相手に対して最大限のリスペクトをこめて付き合うには、邪推しないことが必要だ、と。情報が氾濫し、常時接続の時代だからこそ、一面だけを見て勝手に全体像を結ばないことが必要だ、と。断片を繋げて像を作るのは、きっとAIにもできることなのだろう。答えを出すことも、簡単である。ただし、それが本当に正しいのかはわからない。人の気持ちはエクセルのように、関数を入れたら答えが出るようなものではない。複数の事項から気持ちを推測することは容易いが、本当のことはわからない。他者が他者であることを受け入れて、境界線を引くこと。垣根越しに愛すことが、これから求められるのではないか。

 

私の話でいえば、ソーシャルメディア上の自己像は一面に過ぎない。虚像とまではいかないが、フィクションとリアルのあわいにあることは間違いない。そして、語り手は嘘をつくのだ。

 

文学を学ぶということ。これは終わりのない旅である。恩師に出会えてよかった。恩師の文学論は、私たちの常識や思い込みを軽々と飛び越えてしまう。私はそれを目指したが、無理だった。膨大なインプット量に裏打ちされた閃きの賜物である。そして、インプットは永遠に続く。終わりはない。研究室を離れてもなお、それは可能なのだ。

 

後輩や友人からの手紙を読む。明るい人だと思ってくれて、ありがとう、と率直に思った。私は底抜けに暗く、明るい。周りに対して、明るく振る舞えていることが、最高の幸せなのだ。人と関わる時くらい、楽しくいたい。知らない間に、願いは成就していたようだ。

 

友人と別れるとき、寂しかったのに明るく澄んだ気持ちでいれたのは、私の小さな願い事が叶った証拠なのだろう。執着を持たずに、上手いところの距離感を保ちながら付き合えた証拠なのだ。遠く離れていても、すぐ会えるよ。

 

後輩から花束をもらう。オレンジ色の花束だった。

 

それぞれ、楽しくやっていきましょう。そして、時には時を共にしましょう。

 

MONO NO AWAREの「そこにあったから」では、クライマックスで「ああいつまでもみな幸せでいて」という歌詞がリフレインされる。盛大なコーラス。私も、このコーラスに混じって叫びたい。

 

ああいつまでもみな幸せでいて。

各々、幸せを見つける術を身につけようね。

きっと、上手くなるはずだから。

大学時代は、どうしても周囲と比べたり、他人の欲望を欲望するというアレに囚われていたが、これからは違う。別々の道を辿って良いのだ。

 

祈るようにして、文が続いた。

それに呼応するかのように、電車の外に菜の花が広がる。

 

私はこういう景色を求めていた。都会のビル群はどうしても慣れない。田舎で育ったから、農村の風景が恋しいのだ。

 

大学で都市部に移住したが、ずっと慣れなかった。巨大な広告都市。欲望が生み出され続ける年には辟易としたが、駆り出されるようにして消費をしていたことは間違いない。これからは消費のスピードを落とさざるを得ないし、落とした方が幸せかもしれない。

 

幸いにして、研究科から賞をいただくことができた。受賞の告知を見た瞬間は半信半疑だったが、嬉しかった。単なる通過点に過ぎないが、あの苦痛の日々がちょっと、報われた気がした。修士論文自体の完成度は低いものの、今後に続く種がたくさん見つかったのは大きな功績だろう。研究を続けられる環境にはあるので、在野研究の道を拓いていこうと思う。

 

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最後にもう一度。大好きな池を載せよう。

 

暗闇の中、友人と池の周りを歩いて語り合った。あの日々を忘れることはできない。暗闇は大きな力を持っている。そんな力を教えてくれたキャンパスだった。キャンパスには森林があった。

時折、森林の中を歩いていた。逍遥することの楽しみを教えてくれた。

 

6年間、この大学で過ごせて良かったと思う。

 

関西という場所も、学生にとって非常に良い場所だった。週末は本を買いに行き、水面を見に行く。これが楽しみだった。

 

本といえば、大きなジュンク堂が梅田にあったし、京都の丸善も良い品揃えだった。やはり、一乗寺恵文社は外せないだろう。

 

水面といえば、大学はもちろん、出町柳の鴨川デルタ、下鴨神社が好きだったし、神戸・舞子から見る明石海峡須磨浦公園から見る大阪湾が好きだった。

 

そう思えば、幸福な6年間だった、といえるだろう。

 

今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

針葉樹

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一ヶ月ぶり。

再び北海道に行ったので、近いうちに旅行記を書く。

 

引越しの荷造りするなかで、過去を顧みる。

荷物は自分の生きた証だ。

根本的に整理整頓が苦手で、小学2年生の時に「整理整頓を上手くできるようになりたい」という作文を書いていたくらいだ。成長していない。

 

引越し作業に追われ、文章をうまく整理できないが、旅行記含めて学生時代の集大成として文章を書きたいね〜、ひとまず引越しが成功するよう祈りながら🙏

正論のストレートパンチ

正論だけでは世界を救えないよね〜。マクドナルドで女子高校生が言ってたよ。嘘松だよ〜。

 

日々に忙殺されると、正論ばかりが脳裏に浮かぶので困る。確かにタイトなスケジュールに生きると、正論で物事をぶった斬るのが妥当なんだよな。少しでも温情をかけようものなら、スケジュールは狂って面倒なリスケを迫られるから。あくせくと生きる必要がなければ、正論を振り翳して断罪することなどないだろう。が、忙しさで殺伐とした心持ちになると、一気に正論が噴き出てしまう。

 

正論みたいなものが、実は相対的だ、としたのはギリガンのケアの倫理だったっけ。道徳なるものが絶対的なものではないと示したはず。

ケアの倫理みたいなものを考えると、わたしが正論パンチを食らわせていたことについて反省を迫られることになるわけだ。

 

ボケとツッコミの立ち位置を考える。正論キャラ、換言すれば観客と同じ地平にいる存在はツッコミで、トリックスターや同化のような存在だ。ツッコミする側に慣れてしまうのって怖いと思う。自分の意見がマスだと思ってしまう怖さがある。自分が正気の側に立っていると思ってしまう…

 

それでもメタ的なツッコミは好きだ。というか、1人で完結する人が好き。狂気と正気の併存は可能であると思えるから。わからないけど。

 

ツッコミだと思っていたことが他者への断罪だった!という本当にありそうな怖い話。正論とかロジカルシンキングだけでは世界は成り立っていない。クリティカルシンキングの授業で、「感情論だよね」と一蹴していた学生が先生に嗜められていた。感情論は悪なのか?例えば、それが極めて当事者性が大切だとして、その語りを感情論として片付けることこそ暴論なのではないか。

 

あなたの感想と一蹴することは実のところ、全くのロジカルシンキングではない。

 

気持ちは毛羽立っているけれど、何とか楽しくやってるつもりです。この前は留学生の先輩に中華料理をご馳走してもらった。オーセンティックな中国料理、めちゃくちゃ美味しい。香辛料が効いていてる。でも、あれは中華鍋がなければ作れないらしい。

 

ルールーというの名前の杏仁豆腐ドリンク美味しかった。帰りに中国の食品店に寄って、サンザシのお菓子を買った。甘酸っぱいサンザシが大好きだから。サンザシスイーツの定期便とかないかな。

 

こんな感じで、日々生きている。